(めいりんびと)@

明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

 

第一回目は演出家・俳優として世界中を飛び回っている演劇倶楽部『座』の主催者 晴彦じょうはるひこ さんを紹介します。彼は1948年、京都生まれ、明倫小学校、堀川高校を経て同志社大学卒業後、劇団「四季」の正劇団員を経てフリーで活躍されています。1985年の蜷川「マクベス」を皮切りに度々海外公演に参加、「オイデプス」初め多数のシェイクスピア戯曲に出演、1992年より演劇倶楽部』を設立して若手の指導、現代版浄瑠璃「詠み芝居」の公演活動に意欲的に取り組んでおられます。彼は数々の海外公演と自らの狂言修行経験から今、日本人の言葉や文化の崩壊に大いに危惧を抱いており、それが演劇倶楽部『座』の設立に繋がっていると語っています。日本文学の持つ魅力を素直に伝えるために原作を脚色せずに朗読する芝居―「詠み芝居」で彼は忘れかけている日本語の美しさをもう一度知ってほしいと意欲を滲ませて語ります。(H18.9.20号取材)

                                  記・長谷川

 

   

              (めいりんびと)A

明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

 

今回はサントリーや、ローソンのテレビコマーシャルでも常にお顔を見かけ、皆さまご存じの服飾評論家、また「おこしやす京都委員会委員長」として大活躍中の「市田ひろみ」さんにお聞きしました。市田さんは1932年大阪生まれ、京都府立大学の学生時代を明倫学区の炭之座町で過ごされています。

「明倫学区の思い出はなんと言っても、祇園祭ですね。祭りが近づくと、放下鉾のお囃子が勉強中の窓からうるさいほど聞こえてくるんやね。お囃子の練習も一学期の終わり頃から聞こえてきてて、もう勉強どころや無かった思い出がありますね。」

「あんまり皆さんご存じないかも知れんけど、戦中途絶えていた祇園祭の山鉾巡行が、月鉾など一つ一つと復興していきますやろ、それが最も楽しい思い出です。それと、四条通りをはじめとして、私はチンチン電車(北野線ですね)には、よう乗せてもうろたんやけど、それも無くなったしね‥‥。」

「正月の思い出としては、明倫学区殆どのお店の玄関に幕をキチンと掲げられていて、「正月」という気分がしましたね。また当時は道を歩けないくらいトラックも多うて、活気もありましたね。京都の中京は、戦後の発展と同時に、残すモノはチャンと残してきたと思うのね。例えば町家とか、地蔵さんとかね‥。そう言ったモノはやはり残すべきですね。」と懐かしそうに語られた。

現在、キモノ、マナーなどに関する著作物が70冊。NHKなどからも50本を超えるビデオ・DVDも出されている。今、毎週木曜日夜八時から6チャンネルのミステリードラマ「新京都迷宮案内」に、下宿のおかみさん役良成貞子としてレギュラー出演しておられますので、ぜひ皆さまご覧下さい。(談)(H19.1.20号取材)

                                ・井

 

        (めいりんびと)B

 明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

 今回ご紹介する明倫人は「きものの街・室町」に最もふさわしい今が「旬」の女性、2007京都きものの女王に見事に選ばれた岩崎真利子さんです。両親に内緒で応募した「京都きものの女王2007ビューティーページェント」本選考会で、京都の女王四人に選ばれたために両親に判ってしまいましたと、明るく話す御年二十三歳の彼女は、今年の三月に京都コンサートホールで開催された全日本きもの振興会主催の「きものの女王」全国大会において、市田ひろみさん他百人を超す審査員による『立居振る舞いと「きもの」への想いに対するスピーチ』の審査の結果、各地区からの代表三十六人中三人の女王に選ばれました。選ばれた時は自分でもビックリされたそうでしたが、このインタビューには女王の自覚と自信を持って答えていただきました。「京都きものの女王」に選ばれると一年間はきもの振興の為のいろいろなイベントに参加しなくてはならず、新聞社表系敬訪問、パープルサンガ応援、グリーンジャンボキャンペーン、名古屋ほか各地での物産展出演、祇園祭花笠巡行や秋の時代祭りの参加など月四、五回はある仕事を楽しみながらこなしておられます。「これからは明倫学区の行事にも積極的に参加したいと思っています。私の住んでいるこの学区に『大好きなきもの』を着た人が溢れているような学区になることを願っています。」と女王様の嬉しいお言葉がありました。(H19.9.20号取材)

                                  記・長谷川

 

         (めいりんびと)C 

明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

十六代大西清右衛門さん」

釜座町から北へ、釜座通りが伸びる。町名、通り名にまでその名を残す、茶の湯釜の伝統が息づくまち。
1620年、江戸幕府を徳川家康が江戸に開いた頃、初代浄林が三条釜座の座人となって以来、大西家は現在で十六代を数える。当代、大西清右衛門さんが館長を務める大西清右衛門美術館。
茶の湯釜の美術館として知られており、歴代の手になる茶の湯釜をはじめとした数々の茶道具が展示されている。

 大西清右衛門さんは当学区と美術館について、「美術館は大西歴代の仕 事と茶の湯釜の魅力を紹介するとともに、釜座町の伝統を今に伝えることを使命としておりま す。こうした独自の文化を持つことが京都の奥深さであり、これを次の世代に伝えることが自分の責務と思っております。
また私どもは、三世代の繋がり(祖父母、父母から子に伝え学ぶこと)の大切さを感じています。
 地域の幅広い世代の方々に釜座の文化に触れていただき、伝統と創造についての意識を、歴史ある地域の生活のなかで自然に生かして貰えたらと願っていま
す。と語っておられます。

 美術館では、小学校の生徒さんを対象に、親子茶会を開催しておられま す。「親と子が一緒に茶の湯の文化に触れる機械を持っていただきたいと、数年前から続けてきています。
実際に釜に触ったり、お茶を点てる体験をしていただくのです。

また、広い層に文化を伝えていきたいと考え、入館料も高校生以下は無料としています。とのことです。ぜひ地域の方々もご来場ご参加下さい(H20.6.1号取材)                     

 記・井上              

 

         (めいりんびと)D 

明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

   深見茂氏は昭和9年1月に三条室町下がるに生まれ、明倫小学校を昭和21年3月に卒業、大阪大学大学院文学研究科(ドイツ文学専攻)を終了後、南西ドイツにあるチュービンゲン大学に政府の交換留学生として2年間、ハインリッヒ・クライストの研究に費やされました。帰国後は甲子園に住まいされ、昭和33年3月より平成8年3月に大阪市立大学の名誉教授になられるまでは大阪市大で教鞭を執られました。   

ご祖父やお父様が黒主山の理事長をされていた関係で毎年、祇園祭の時にはお手伝いに戻り、その後を継いで昭和61年に黒主山の理事長に就任。平成八年からは黒主山の理事兼(財)祇園祭山鉾連合会の理事長を務めておられ、「祇園祭の歴史やあり方について」多数の講演会をされています。

子供の頃のお話を伺うと、小学生の頃は山鉾をジャングルジム代わりに遊び、ペトロフピアノを伴奏に国民歌謡を講堂の舞台で歌った事等を思い出され、今もその歌詞がすらすらと出てきますよと笑って唄って下さいました。見せて頂いた小学校三年の日記には、昭和18年7月24日の後祭りの神輿のことが書かれてあり、それ以降祇園祭は、戦争により中止になり、その後昭和22年に復活するまで四年間、祇園祭の無い時代をすごされたそうです。

最後に明倫学区について御伺いしました。『町中(ちょうじゅう)と呼ばれる大棚の旦那衆が自治権を持っていた明治以前は、自治の気風が高く、番組(自治組織)を中心に強力な地方分権が確立され、祇園祭もそれにより運営されていましたが、近代(明治以降)の効率中心の中央集権(東京中心)になった今、番組は解散させられ、その精神は、受け継がれなくなってしまったように思います。でも、明倫学区に小学校が芸術センターとして残り、祇園祭が営々と続いているということは未だに「町中」の精神が生きていることの証であり、この地方自治の精神を大切に守って行きたいと思っています。』と語られました。(H20.10.1号取材)

                                                                      記 長谷川

 

                        (めいりんびと)E

         明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

空前の町家ブームの中で町家の守護者として活躍されている小島富佐江さんは、伏見稲荷の近くで育ち、1985年(昭和60年)に結婚され、当明倫学区に来られました。

明倫学区に嫁いで来る事にご本人は抵抗なかったそうですが、材木商を営んでおられたご実家のご両親は大層心配されたそうです。

結婚された当初、町家の切り盛りは小島家のご両親がされており、掛け軸や床の間のしつらえもお父様がされていたそうです。もともと小島家は呉服商をされていましたが、お父様の代に廃業され、佐江さんのご主人は若手建築家として設計のお仕事をされていました。

不幸な事にバブル真っ只中の平成3年にご主人が亡くなり、平成5年にはお父様も亡くなるという事態に見舞われ、町家を受け継ぐという立場に立たされました。それをきっかけに町家の保全再生に取り組む「京町家再生研究会」(特定非営利活動法人・平成4年設立)に参加され、平成9年より理事と事務局長を勤めておられます。

娘時代も伏見の町家で育った小島さんは、「家を受け継ぎ、維持している人々に対しての行政の施策」を主なテーマとして活動をされており、一昨年から施行された景観法にもその成果が盛り込まれています。また、町家に住まいするということについての本を数冊出版されています。

小島さんは、現在お住まいの町家のミセ(表屋)部分を京都学園大学の京町家キャンパス「新柳居」として開放されています。

これは町家の活用法を色々と悩んでいた時、ふと、イタリアで見た、大学の施設が街中に点在するのを思い出し、学生は街中で勉強するのが良いと思っていたところに話が進んで開校の運びになったということです。

一周年を迎え、明倫学区とのコラボレーションも活発で、学区の人々が何人も講師として貴重な体験や知識をご講演されています。

最後に明倫学区についてお聞きすると、街中のわりに落ち着いていること、日本の伝統文化の中心地にいるという実感を持てることを揚げられました。

確かにこの地域はかつて織田信長や秀吉などが闊歩した南蛮寺があり、茶屋四郎次郎の邸宅があり、祇園祭は目の前、というこの地域こそ正しく歴史、文化の中心地に違いありません。

「この地が今、マンションの増加など、商環境と住環境とのせめぎ合っている中で、行政ではなく、学区民による地域ルールの確立ができるような地域になればと思っています。」と答えられました。(H21年6月1日号

                         記 長谷川

 

                        (めいりんびと)F

         明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

                                   能楽師 金剛永謹氏

 

1951年生まれの第二十六世金剛流宗家、金剛永謹(ひさのり)氏は、二十六歳まで当明倫学区(室町通錦小路下る)に住まいされており、明倫小学校を経て同志社大学文学部を卒業されました。小学校時代は、(本人曰く)、大人しく、真面目に過ごしました。思い出といえば卒業式に大広間で仕舞を演じたこと、明倫校には色々なモノが備わっていた事(スロープ、大広間、屋上の裁縫室、スチーム‐使っていたかどうか記憶に無い‐等々)を思い出しますと話されました。 

幼少期からお父様(金剛巌氏)の能を見て育たれ、四歳で初舞台を踏まれ たので、能楽師に成る事に抵抗は無かったそうです。大学生になったころには「能」というものが自然と理解できるようになったと話されました。今から、十二年前の四十六歳の時に関西唯一の流派である金剛流宗家を継承されています。現在、(財)金剛能楽堂財団理事長、(社)日本能楽会常務理事、京都市立芸術大学非常勤講師等を務めておられます。

 六年前までは菊水鉾町に金剛能楽堂がありましたが、老朽化の為、建て替えを検討されたところ、間口の問題で、建築基準法、消防法に適わず、御所の近く(烏丸通一条下る)に移転されました。今では新しい金剛能楽堂として能以外にもコンサートや講演会などの会場として幅広く活用されています。趣味を伺うと以外にもオーディオ、と能面の収集とか、小学校のクラス会にも気軽に出席される気さくなお人柄で、二十歳になられるご子息も同じ道を進まれており、最近は高校生や修学旅行生に対して「能の事始め」など啓蒙活動にも重点をおきながら、芸風を高めておられます。

  

記 長谷川  

                        (めいりんびと)G

         明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

                                    

杉田繁治氏

昭和145月中京区生まれ。富有(御所南)小学校、柳池(御池)中学校、府立朱雀高等学校を卒業。京都大学・大学院に学ぶ。情報工学の分野で博士号を取得。

京都大学助手・助教授を経て国立民族学博物館へ転任。助教授・教授・研究部長・副館長を歴任「コンピュータ民族学」を主なテーマとして26年間勤務。63才で定年退官。

その後、龍谷大学理工学部に新設の「情報メディア学科」教授として6年間教育に携わり、70才を機に勤務から引退。

 

現在常勤はなく、国立民族学博物館名誉教授、国際高等研究所フェロー、比較文明学会理事、民族芸術学会理事、国際京都学協会理事など。その他、展示学会、情報処理学会、電子情報通信学会、アートドキュメンテーション学会、京のまつり研究会などの会員。

京のまつり研究会は、地域社会が支えている曳山祭を中心に実施調査を行い、その文化、組織への理解を深めるとともに、保存会など関係者との交流を行い、今後のまつりのあり方、次世代への継承を探りながらまつりを楽しんでいる。

京都市の建都千二百年事業においては、企画委員として活動。また京都市新図書館構想委員会として新しい市民図書館のあり方を検討。「京都創生百人委員会」委員。KBS京都の討論番組にも何回か出演し、京都をどうするかの議論に参加。京都新聞の「現代のことば」欄に過去数回にわたり京都論を執筆。

鯉山町には昭和43(1968)3月から居住。今まで明倫自治連合会の行事としては、春のボーリング大会、秋の区民運動会等に参加。これからは、地域社会の事業に力を入れて参画の予定。町内の「鯉山」保存会理事として維持発展させるのに力をそそいでいる。平成18年(2006)7月には、鯉山保存会『祇園祭 鯉山』を編集・発行。今後、山鉾連合会の活動にも協力して、祇園祭全体の運営にも積極的に寄与したいと考えている。

記 赤井

                        (めいりんびと)H

         明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

 

無名舎主催 吉田孝次郎氏  

今年の九月から、祇園祭山鉾連合会理事長に就任された、吉田孝次郎氏(現・自治連会長)は 昭和12年3月30日生まれの73才。昭和19年に明倫小学校に入学、学芸会、運動会、大好きのガキ大将として六年間を過ごされたそうです。卒業式が明倫校創立八十周年にあたり、生徒代表として祝辞を述べられた事は、お父様にとって最もうれしい出来事だったであろうと話されました。また、特筆すべき事として、昭和23年、戦後祇園祭復興第2年目の年(5年生)に北観音山の囃子方になり、以来五十年間、鉦と太鼓の囃子方としてまた、後進の育成に活躍されました。

城巽中学、堀川高校と進学されましたが、城巽中学時代に上田、田中両恩師の指導により、絵画に目覚められたそうです。堀川高校普通課を卒業後、浪人して武蔵野美術大学西洋美術科に入学されますが、その浪人時代に関西の名門美術塾の関西美術院で学んだ事が人生の一大転機になったと話されています。奥様も染色美術を志す学生として在籍されていて、結婚に結びついたそうです。卒業後大学に残る事になったことが絵画以外の多く分野の人脈を得ることになったと話されました。

そして26歳から36歳までを東京で過ごされた中で、柳宗悦氏の民芸(民族学、美術工芸史の研究運動)に共鳴、その研究会の名を取って四十二歳の時に、自宅を「無名舎」と名付け、町家の復元改修に取り組まれたとのことです。それはまた、美しい京都を取り戻す為の具体的行動として京都での先駆けとなり、現在の町家再生運動に繋がっています。

38歳から十年間、京都芸術短期大学講師(現・京都造形芸術大学)、48歳から70歳まで嵯峨美術大学で「京都の生活文化」の講師として教鞭を執られました。

最後に山鉾連合会の新理事長としての抱負を伺ったところ、「後祭り(24日)」の復興を挙げられました。「今の祇園祭は都市機能を逸脱しているように思う、人出、屋台、ゴミ問題などを思うと17日に統一された事については再考の余地がある、また、三条通を稚児や神輿が通る還幸祭の意味を伝えられる最後の世代でもある」とも話されました。

著書に「京都祇園祭の染織美術」があり、世界中の美術工芸品のコレクターとしても有名。

                                            記 長谷川

                                    (めいりんびと)I

         明倫学区にゆかりのある、現在活躍中の人物を紹介するシリーズです。

 

今回は平成二十二年度の現代の名工(日本料理)に選ばれた京料理「井傳」三代目・井山修一さんにお話を伺いました。

まず最初に驚かされたことは、明倫小学校卒業された後、同志社に進み、大学では経済学を学ばれたと言う異色の肩書きでした。てっきり若いころから、どちらかの料亭で修行されたものと思っていたのですが、料理は大学卒業後にお父様から「見て、食べて覚えなさい」と言われ、「習うより慣れよ」の教えの下に、いろいろ苦心されたようです。 

当時(昭和三十年代)は、現在のようにテレビや本など豊富にレシピの載っているものがある時代ではなかったので、父親達が創った京料理研究会に入会、いろいろなお店の板前さんを招いて、研鑽を広められました。  

その後料理屋の二世が集まって作った、若手のための「京料理芽会(めばえかい)」に入会、全国大会に出席するなど勉強され、研究会の会長を経て、京都料理組合の副会長、京料理芽会副会長を歴任。

平成十六年に京都府の「現代の名工」(京都府優秀技能者表賞)を受賞され、現在は料理生活衛生同業組合の理事をされています。

「井傳」の歴史についてお伺いすると、創業は明治三十年、初代が「鳥羽清」というお店で修業された後、独立、お名前の「井山傳三郎」から「井傳」をスタートされたそうです。

最初は当時の慣らいとして、料理屋ではなく仕出し屋として開業され、室町の問屋へ「おかず」や「酒の肴」を入れておられたそうですが、二代目が戦争に出兵され、配給米を「おじや」にして配ったこともあったそうです。戦後は「仕出し弁当の工夫」に力を入れ、仕出し料理屋「井傳」として再開されました。明倫時代のことを伺うと、修一氏が明倫小学校に在学中は三年生までがイロハ組で四年生になった時からABC組に変わったこと、当時の講堂正面には昭和天皇・皇后陛下の写真が飾ってあったことなど話して頂きました。

最後に「井傳」の心得については「四季に応じた工夫が大切であり、色彩、デザインなどの感性を磨くことが必要」と言い切られ、四代目(和彦さん)にも「見て、数をこなせ」と指導されています。

記 長谷川