このコーナーでは、27町ある明倫学区の各町内を紹介していきます。

画面上の町名をクリックしてください。

 

第一回 釜座町

 

  明倫学区で最北西のこの町は、名前が示すとおり、平安時代に釜師(鋳物師)が集まって座(協同組合)を 構えていた所からきています。

昔(江戸時代)は、祇園祭には東隣の衣棚町と共同で「鷹山」を所蔵しており、西洞院通には西洞院川が流れていたそうで、そのことから染色業、酒造業、鋳造業が発達したことなどが釜座町の栞に書かれています。現在も大西家、高木家がその流れを継承しており、大西家の美術館には初代よりの茶釜や、設計図、それぞれの時代の茶人との手紙などの資料が展示されています。

釜座町では、町内に八階建てのテナントビルの建設予定が持ち上がったのを機に、平成3年より建築協定(高さ20m以下、6階建てまで、ワンルームマンション・風俗営業の禁止等々)を結び、町内の景観保全と健全な生活を守るために町民が一致団結してきました。

 平成13年に建築協定は2度目の更新(5年毎)を迎え、世相の移り変わり、また建築協定の持つ有効性に限界が続出しその意義が問われてきています。そもそも隣人同士の約束事から拡がって結ばれる協定であり、個々人の

繫がりの中におのずと生まれてくるお互いの生活を保障し合うという理想的協定の意義をもう一度考えねばならない時期に至っています

現在、人口は18世帯54人とマンション3棟29世帯(平成14年8月現在)、店舗16と言う構成です。1月には新年会、4月は総会、8月地蔵盆、11月斧屋の法事が釜座町の主な行事です。

 

追記:平成22年11月14日にWMF(ワールドモニュメントファンド)より日本で2番目に修復助成金を頂いた

家(町会所)の全面改修が完成しました。修復には京町家作事組によって、町家の伝統工法を忠実に再現し、その過程を綿密に記録するなど様々なプログラムが実施されました。完成披露には当町の十六代釜師・大西清右衛門さんの亭主による茶会が催され、ニューヨークからヘンリー副理事、門川京都市長をはじめ、多くの方々がお祝いに駆けつけてくださいました。現在は町家の相談室、町家見学会、展示会等に活用されています。

      

        

   *町家の見学をご希望の方は 075−252−0392へご連絡ください。

釜座町 長谷川

第二回 菊水鉾町


古名を「夷三郎町」と云い、恵比寿神を祭神とした「夷山」を出した町。

元治元年(1864)、禁門の変により元の菊水鉾は焼失したが、昭和
28年、鉾頭に透かし彫十六弁の菊を持ち、唐破風屋根を抱いた昭和の菊水鉾として、焼失前の華麗な姿を再興した。

寛永十四年(1637)の洛中絵図には「ゑずや町」とあり、他の絵図
文献等に「ゑひすの町」とも記され、元禄末期の洛中絵図に初めて「菊水鉾町」の町名を見る。

室町時代中頃には夷社が町内の東側に存在していて、この社の脇に「菊水の井」の名水が湧き出していた。

  千利休の師である武野紹鴎が、この夷社に因んで大黒庵と称し、庵を構えて弟子を持ち茶の親しんだ。貞享元年(1684)、夷社の焼失
により祠堂、神像を失い、「菊水鉾町」と改称した。
近年、分譲マンションが2棟でき(59世帯と77世帯)、従来の4世帯と会社等21店にプラスされて人 口
は急増した。 金剛能楽堂跡地から出土した「菊水」銘入の井桁石と『菊水の井跡』説明板、『大黒庵武野
紹鴎邸址』の石碑を、当財団会所を設けたマンション入口付近に配置し、歴史の深さを物語る証としている。

菊水鉾町 川塚錦造

 

第三回 三条町

町内で収蔵する古文書によれば、応仁の乱後、町内に住む伊藤道光と言う租税収納を司っていた者の家へ、豊臣秀吉が京へ来る度に泊まっていた。 秀吉から大金まで借りるような
関係であった。

それゆえか明治時代まで当町は名を伊藤町と呼ばれていた。

江戸時代、今の「八幡山町家」に二条城御用師の錺職であった藤田大助と
いうものが住んでおり、寛政九年、二条城金蔵より四千両盗みだした。

一年五カ月後に大助の犯行が明らかになり、四千両も無事に帰ってきたが、大助は獄門磔になったとの記述が見える。 また江戸時代、町内には禁裏御用医師荻原典薬少将の屋敷があった(現在は紫織庵として残存)。  

三条町は、祇園祭では後祭に「八幡山」を出す山鉾町である。御神体は厨子入りの応神天皇馬上像。堀川五条の若宮八幡宮より勧請したものである。
巡行時、「お山」の鳥居には左甚五郎作製の双鳩を掲げる。八月末日にはお社前で、石清水八幡宮から御神官を迎えて放生会が行われる。  

「八幡山」の京都市文化財「祇園祭後祭屏風」は禁裏御用絵師、海北友雪(海北友松の弟子)の作で、山鉾町唯一残る祇園祭屏風として有名である。祇園祭時にしか公開されない。

畑 傳兵衛(琴伝)

 

第四回 姥柳町

「京都坊目誌」によれば町名起源、不詳、布袋山町と言ふ。慶長以来毎年、祇園會に布袋の像を安せる山棚を出す。

像は支那の梁の高僧・布袋師、名は契此(かいし)、長汀子(ちゃうていし)と號す。明州泰北県(みんしゅうほうほくけん)の人(浙江省北東寧波にんぽう)。古くから遣唐使以来の対日貿易港として榮えた地。今の本尊は支那伝来の白青瓷に金銀青丹を施した洵(まこと)に優れた磁器であり高さ五寸の座像左右に唐子童子あり古来天魔厄神を除き寿福を増して子孫を繁栄せしめるものとして信仰されている。

八坂神社記録によれば明応九年     (1500)に「十九番 布袋山四条坊門町と室町と間也」とあり、巡行に参加、以来飾山として行列に出ず。天明八年山棚類焼し、像のみ傳へて今に存す、応仁の乱以前には浄妙山を出し、これはのち骨屋町に移るが、更に布袋山を出している。廃絶後は長刀鉾の寄町として地ノ口米八斗を納めた。

因云(よりていわく)祭日七月十七日、二十四日とす、蛸薬師通を区域とし。同通以南松原に至るを十七日(先祭)とし、同通以北を二十四日(後祭)とす。共に氏子名町は名家の筆による屏風を陳列往来の人を観覧せしむ、其の装飾極て美を競ふ、都下一の大盛況とす。この記録をもっていかに姥柳町が京都祇園會の一大中心地であった事が、推察されよう。 布袋山は大津祭、岐阜高山祭、小浜放生会、弘前ねぷた祭等全国に多くの影響を及ぼした。懸装品見送、布袋「唐子喜遊図」は川島甚兵衛「名品図譜」に所収・所蔵されている。明代綴織、ZZ組織とする超極上優品であり、このタペストリーの復元製作の日が訪れることを期待される。

この地には南蛮寺遺跡があり、平安京内にも含まれ中世以降は京都の商工業の中枢地であり、16世紀にはすでにヨーロッパでは知られた町名であった。耶蘇会の宣教師たちが、しばしば、日本通信のなかで紹介し、南蛮寺の名で親しまれている会堂があったことはあまりにも名高いことであった。

オルガティーノ、フロイスが中心となって信長の庇護のもとに建設されたもので1575(天正三)年に着工、1576(天正四)年献堂式をおこなっている。狩野元秀がえがいた「京名勝図」扇面図によって会堂の構造や庇護の一端をしのぶことが出来る。珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれ京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。

このことにより この周辺の町家の生活と文化 美意識が広く深くなり山鉾町に渡来懸装品が多く輸入されることとなる。天正十五年(1587)九州征伐を終えた秀吉は宣教師追放故令を発し、キリスト教弾圧に転じ、南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地には復興されなかった。

朱印船貿易史権威 川島元次郎名著「南国史話」─銭五の密貿易船の行方を尋ねて─(川島義明蔵)考え合わせ十六世紀「イーリアス」図タペストリー五枚 渡来の謎について考察すればまことに歴史とロマンに満ちた町である。最近北国新聞記事、十六世紀の南蛮寺二一世紀の金沢城共通する「建築家 高山右近」時空を越えた二つの建物がよく似ている。金沢城の「三階建」「入母屋」「黒隔柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を京都の南蛮寺にみることが出来る。右近の巨大な遺産であると紹介されている。

元明倫小教頭松本利治先生(昭27・4〜33・3在籍)大著、「京都町名変遷史」には姥柳町は我国における西欧文化の中心であり京洛における先端的な存在であった。明治〜大正元年、室町の大家吉田忠三郎家(吉忠梶j、藤井善七家(丸池藤井梶j、大店成宮喜兵衛商店、伊藤産業梶i松坂屋)等が存在していた事が記されている。

昭和40年代よりビル化に変貌その跡地にはテナントビル、和装呉服商社 駐車場等になっている。来年(平成16年度)七月には一時中断(七年間)していた飾山が新築マンション業者の御好意と援助により復興出来る事になった。この支援に対して甘受することなく 山鉾町として又、三十三基めの平成の山として再興することを待望するものであります。

(京都町衆文化研究所・川島義明 識)

 

第五回 百足屋町

平安末期の天治二年(1125)、現在の百足屋町一帯を中心に、三条〜四条間の大きな火災が会った。それから四十七年間に合計四回の火災にこの地域は見舞われ、庶民小屋が焼けた。つまり百足屋町に庶民が住み始めたのは、少なくともこの頃まで遡れるわけである。

平安後期、新町通は町通りと呼ばれ、商業が発達しはじめ、都のメインストリートだったのである。それから今日に至るまで、入れ代わり立ち代り町人(マチビト)が住み続けた日本最古の歴史を持つ通りが新町通りであった。室町時代は中心軸はむしろ室町に移ったが、新町通の繁栄も続き豊かな商家が増加した。祇園祭の山鉾もこの経済力を背景に発展したものである。応仁の乱以前に今の百足屋町からも、南観音山のもとである「ふだらく山」が出ている。  

百足屋町という名称は、かつて百足屋という大商人が住んだというのが、その起源だという。安土桃山時代には角倉・後藤とともに、京都三長者と称された茶屋四郎次郎が居を構え(A)、江戸初期には幕藩体制確立の功労者林羅山が住んだ(B)。

江戸初期には北観音山とともに、南観音山も曳き山となったが、元禄頃にはまだ屋根はなかった。その後テントのような屋根覆いができる。天明の大火(1788)で大被害を受け、観音様の頭と胸の上部を持ち出すことがやっとだった。南観音山の再興は、寛政八年(1796)のことである。

祇園祭が盛大になり、山鉾が絢爛豪華になるのは、文化文政時代(1804〜30)であるが、この時期に南観音山も数々の立派な懸装品を整えている。土蔵の再建は天保二年(1831)のことだった

幕末には、元治の大火(1864)があり、土蔵は残ったが、多くの被害を受け、文書類も失った。実はそれ以前から南観音山は借財の返還に四苦八苦し、元治の大火後、山を出したのは明治十三年(1880)のことだった。この年に町内会所も再建している。

明治時代には、名医新宮涼閣が町内に住み(C)、その後現在の伊勢長邸に明治・大正に活躍した大実業家田中源太郎が居住した(D)。

南観音山の財政がともかくも安定し始めるのは昭和四十一年(1966)に保存会が財団法人となってからである。保存会役員や囃子方のメンバーに女性が参加しているのも南観音山の一つの特色であろう。今年の巡行にも女の子四名が囃子方として参加した。祭の技術者として、懸装品の補修・修復や浴衣の下絵制作にも町内居住者があたっている。

京都市は田の字型容積率400%の商業地域を「職住共存地域」と呼ぶが、百足屋町は「職住祭共存地域」と言ってよいのではないかと思う。

                                            木村万平

              百足屋町史が発刊されました。

 

第六回 観音堂町

  南北に走る新町と室町の間、そして東西の四条と錦小路の間の通りで、東は菊水鉾町、西は小結棚町、北は天神山町、南は月鉾町と隣接しています。路地なので、ほとんどの方がここに町内が在るとは思わないでしょう。でも祇園祭では、四方八方から祇園囃子の音が聞こえる賑やかな町内です。

町名の由来は、鎌倉時代(1192年〜1333年)にここに観音堂(本尊は観世音八幡菩薩)があり、名を竜福寺(始めは浄土宗、後に禅宗へ)といいました。由来は、法燈国師(1260年頃)が聖像(一刀三礼)に対座していると異服の人がどこからともなく現れ『我は人に非ず神泉苑の善竜女なり』と言った。そこで国師が、この近くの民家では水がない為困っている、どうか水が出るようにと願いこれを聞き入れてくれた。その夜、寺の東に清泉が湧き出した。

しかし、その観音堂(竜福寺)も天正時代(豊臣秀吉が全国統一)の町割で廃寺となりました。1492年(明応五年・コロンブスのアメリカ大陸発見)には『観音堂辻・・・』とあるので、この頃から町名として親しまれた地名だと思われます。

 そして、世の中が大平の時代になると、色々な町名で呼ばれ移り変わることになり、たとえば、1637年(寛永十四年島原の乱)ごろには東くわんおんノづしor観音ノ辻子orくわんおん堂ノつしor撞木辻子orしもくのつし!などとあり、さらに1762年(宝暦12年)に『観音堂東辻子、俗に撞木辻子(しゅもくのずし)』と言われ現在に至る。ちなみに撞木辻子(しゅもくのずし)とは、通りの形がT地路となっているので、丁度かねたたきのT字棒によく似ているところから付けられたと言う。そんな地形からか、長屋・番頭宅・別宅などが多く当時はセカンドハウス的な要素があったのかもしれない。  

現在は、飲食・1ルームマンション・問屋・事務所・住居等に使用されている

*この記事は、本や親類そして知人などからの資料を参考にさせて頂きました。             

                                                                            道家 秀明

 

第七回 烏帽子屋町

室町通りの三条から六角の間が、今回ご紹介する烏帽子屋町です。         

もともと豊臣秀吉が京の都に乗り込んできた慶長年間に、ばらばらに住んでい た職人を一まとめにしたところから生まれた名称であるようです。

扇の骨を作る職人の骨屋町、法衣職人を集めた衣棚、釜師を集めた釜座町等、 旧市内にはそのての町名がたくさん残っています。お寺まで集約して寺町をつ くるのは太閤秀吉らしい、何事も合理的で商工業の効率化を狙った一環の産物と思えます。 烏帽子とは平安時代以降の男性用の帽子で、公家・武家の平服用、庶民の外出用などに広く用いられていました。さすがに現代では見かけなくなりましたが、神社の宮司さんや、相撲の行司さん、お雛さんの人形なんかでそれなりに形は思い浮かぶでしょう。

実は、私の父はこの名前が気に入って、当町に引っ越してきたのです。帽子の商いをしておりましたので、烏帽子はエーボウシに通すると、昭和28年に ほとんど決まりかけていた場所を止めて、こちらへ移ってきました。それから約50年、何百年もここで商売をしている風に勘違いをされる方がおられるので、父にしてみれば、してやったりと墓場で思っているに違いありません。 当町のもうひとつの顔は祇園祭の黒主山です。昨今のご時世でマンションも増え、建築中のもの含めると合計5棟になります。世帯数も以前の二十七軒から 二百五十軒ちかくになり、すいぶん賑やかになりました。お祭りのお手伝いに加わってくださるマンションの住民も増えてきて、町内つきあいが広がってきたのは何とも喜ぱしい事です。  

平成17年の4月には新しく出来るマンションの1階に黒主山の収蔵庫が誕生し、お祭り期間はロビーが町会所になります。 従来より広くて快適な空間に、ご神体や懸装品のお飾りができる事を皆が今から楽しみにしています。どうぞ来年の夏には烏帽子屋町の黒主山を見に来て下さい。

大田 正樹(烏帽子屋町)

 

第八回 骨屋町  

 鳥丸通りと室町通りの間の六角通りに面した北側、南側の家並み二十軒程の 町内を「骨屋町」と申します。  「骨屋町」の「骨」と聞いて大方の人が怪訝な顔をされるか、聞き直されます。

「ホネ」とはあの「骨」の「骨」ですか?そうです。「コツ」の「骨」です。 ヘエー?!と驚いた顔をされます。説明をします。「ホネ」は「骨」なのですが、 「扇骨」なのです。

「扇」「扇子」「団扇」の骨のことなのです。この「扇骨」を専門に作る職業、職人の集団がかつて住まいをしていた町内であったとのことです。現在は「扇」に関係しているお宅は一軒もありません。

 今から140年前、明治維新直前の元治元年(1864)蛤御門の変でこの 辺りはすべて焼け野原になったのですが、この町内に残っている古文書「元治 元年甲子歳京洛大火以前ノ町往者概畧」を見ても、「扇」に関 わる職種の家は 一軒もありません。烏丸から六角通りを人って先ず木戸があり、木戸内南側に 「番子部屋」、北側に「地蔵堂」が見えます。そこから奥へ鍛冶屋、薬種商、金貸商、他三十軒程が軒を並べていますが「扇骨屋」さんは見当たりません。

 尚この「図」の肩書きに「骨屋町、当時ハ浄妙山町ト多ク云ヘリ」とあり、 祇園祭「浄妙山」の山町でありますことは申すまでもありません。  一体いつからこうした町名が付けられたのでしょうか?先ず考えられるの はその当時、京都でこれらの職能集団が必要であり、ここで盛んに生産、商取引が続けられていたということです。わざわざ集められたのか、自然に集まって来たのかわかりませんが、かくして「町名」が発生したものに聞違いありません。

 室町幕府なのか、もっと古く平安朝廷なのか、いずれにしろ有職故実に則って儀式典礼に献上された数々の品の一つ「扇」、その「骨」はこの「骨屋町」のものであったのでしょう。  私たちは、七百年、千年の昔からの「町名」を戴いていることを忘れてはなりません。

 松村篤之介(骨屋町在住)

 

第九回 「了頓図子町」

   衣棚通は三条通から急に狭くなり、六角通で終わります。その三条から六角に南北に伸びた細い通りを「了頓図子町」と申します。安土桃山時代の茶人。廣野了頓のお屋敷がこの辺りにあったことから了頓図子町という町名がつけられました。図子とは小路、幅の狭い道という意味で、了頓邸のお茶室に通じる道だったと思われます。

 廣野了頓はこの地で茶道を広め、豊臣秀吉や徳川家康も了頓邸を訪れお茶を楽しんだそうです。実在が証明された歴史的人物の名前が町名につけられたところは数少なく、由緒ある町名です。行政区では了頓図子町ですが、各家庭の戸籍上の町名は衣棚町、三条町,玉蔵町、了頓図子町と夫々に違います。選挙の時は投票所の受付で自分の戸籍上の町名の所に行き、投票用紙をもらって投票します。戦前から住んでおられるお宅も六軒になりましたが、16年度は新しいお家が十軒も建ち、31軒の賑やかな町内になりました。通りが細いのでマンションはありませんが、若い人が増え、子供さんの元気な声も聞こえるようになり、町内全体が若返ったようです。新しい人も古い人も皆で一緒になって了頓図子町をどこのにも負けない住みよい町内にしていきたいと思っています。  

                                                                                      了頓図子町町会長

 

第十回 橋弁慶町

 

戦後60年、昭和20年代を懐旧すると明倫学区の町中にもオニヤンマやクロアゲハは飛び交い、金魚売りや梯子売り達の間延びした声が往来に聞えました。

今では想像も出来ないでしょうが、平日の真っ昼間から仕事中の店員さんと道路でキャッチボールも。

そんな明倫学区の二十七ヶ町のひとつ、橋弁慶町は蛸薬師通烏丸室町間の両側町です。応仁の乱前より橋弁慶山を出す故に、天正(1573〜1592)の頃より今の町名となったようです。

現況は他町同様繊維問屋が多かったのですが、近年、テナントビルが建ち、様変わりはしていますが、マンションはありません。戸数24戸、現在夜間人口は10世帯25人です。

昭和14年(1939)発行の明倫誌によると夜間人口は21世帯211人で隔世の感があります。

因みに学区全体では754世帯6048人でした

 

当町の橋弁慶山に触れておきます。昭和41年(1966)前祭りと後祭りが合同するまでは後祭りのかき山(担ぐ山)のひとつでした。八基のクジ取らずの山鉾がありますが、唯一かき山で、クジ渡しの四条堺町の奉行の前では一回転せず、東へ向いている前部を北の奉行の方向へ90度廻し、一時静止,直ぐに東へ向き直りさっさと行きます。「クジ取らず」の意地を主張しているのでしょうか。明治五年諸事情により、先頭を譲ることになりました。

町家は烏丸通から北側五軒目にあり、明治十六年建築、平成六年リニューアルし、普段は「和の商品」のギャラリーとして使用。祇園祭時には町家奥の収蔵庫から出した御神体を二階にお飾りします。以前のやや暗い目の「二階飾り」の陰影を通りから仰ぎ見るのが、筆者は好きでした。

当町のお祭り以外の町内行事を列挙すると、一月新年会、三月春季施餓鬼・町内総会、四月保存会総会、五月橋友会旅行、八月ゆかた会(家族・商社の方も一緒に)、九月秋季施餓鬼、十月ゴルフコンペ等です。

昭和二十年代は元旦の朝八時に町内中央へ南北家順に整列、町会長の新年挨拶の後、東天に向かい万歳三唱。寒さも手伝い一層厳粛に感じられました。明治十六年の定則によると、八朔の八月一日朝五時中元暑中を相祝し、寄り合いがあったようです。

 最後に町内の表情を少しご紹介して起きます。近隣のご町内と比較して、当町はやや戸主中心、男社会の感がしないでもありません。それは裏方の奥方の支えが特に素晴らしかったからです。派手を好まず、質素倹約の美風が生き続け、やや遠慮気味の気風も見え隠れします。

御山の場合、昔から牛若殿と弁慶殿の担当は固定しているがその他細かい役割分担はありません。しかし、当座になると程よい加減に分散しきちんと見事に仕事が完了します。

沿道の見物客へ「町内の皆が力をあわせて守り続けた橋弁慶山です」と裃姿(かみしもすがた)で供奉を終えて無事帰町。町内はこの充足感を一人占めする贅沢を頂いております。

                      「町衆の汗と自負乗せ渡す山」

                                                                                                               柊 記

 

第十一回 不動町

 

大八車やリヤカーが行き交い、鬼ごっこ、隠れん坊、時には飛来する蜻蛉や蝶に網を持って、駆け回っていた裸足の子供達、そんな時代から六十数年、我が不動町は、当時の面影を残す蔓の家並みの中に、近代的なマンションが建ち、改築・新築された会社や民家が程よく調和がとれ少しずつ変貌を遂げてきました。当町は蛸薬師通の新町と西洞院間に位置し、70世帯に約110余名が居住しています。

町内の由来を記しておきます。本能寺の周辺だった西洞院蛸薬師の古井戸から多数の石地蔵とともに不動明王の石像が発見され、石地蔵は各民家が奉り、不動明王は、町内に祠を設け奉ったことから町名になったと言われています。寛永十四年(約370年前)、洛中絵図(市内の名所や生活風俗を描いた絵回)に不動町が記載されています。嘉永期(約150前)代表作「雪中宇治川図」で知られる著名な画家塩川文鱗が当町に住んでいたとされます。「京都市の地名(平凡社)から一部引用」

 当町の行事を紹介しておきます。

一月年賀の集い。元旦の朝、不動明王に詣り、八坂神社に向い参拝、町内会長の挨拶などを行います。年頭のけじめとして続けていくつもりです。(毎年十名前後の参加者)八月不動明王奉祭。祭壇を設け不動明王を奉り、瑞蓮寺住職(新町蛸薬師)による読経で当町の物故者を数珠回しとともに法要します。十月お千度詣り。八坂神社にて行います。御千度札を持って神殿の周囲を回り、全員で家内安全、悪疫除難の祈願を受けます。その後、ホテルなどに移行し、和気あいあいの中、町内の総会兼昼食会を行います。毎年四十数名の参加があります。近年、園児と児童が増えて、その若き両親の積極的な参加により、伝統的な風習や儀式が継承されていくことが大変喜ばしく思われます。

 最後に当町の特色として、前述の行事の担当役員、それに掲示回覧係と、役割分担していることです。会長が任命した各役員は、それぞれの行事や役目を計画し実行します。当町も高齢化、独居世帯が増えています。誰もが安全安心して住み続けられる町内にと向上していきたく思っています 

 

   不動町役員

 

第十二回 玉蔵町

西洞院から六角新町の急な坂を、山積した荷台を引いた馬が荒い息を吐きながら登って来た時代、町の東角に人力車の溜め場があり、車夫が待機していた大正末期に玉蔵町に移り住んだのが九才の頃でした。玉蔵町一帯は安土桃山時代の茶人 広野了頓邸の跡地で豊臣秀吉もこの地を度々訪れたとか。六角通が表門で徳川将軍の御成門があり、町内の中程の三条通に抜ける通りは無かったそうです。玉蔵の名はその頃からの地名としてあり、現在の了頓図子町は中程迄表通が玉蔵であった為、玉蔵了頓と言っていたとかで明治以後に三条まで通りぬけが許されたと言います。町内南側には町家風商家が並び北側は小商売の家がありましたが、戦時中は疎開される方、引越しされる方で空き家が多く、ひっそりしていた様です。終戦後大商家には二十人、三十人と住込み店員、通勤店員さん等五十人、百人のお店で賑わいました。町内にも戦後のベビーブームもあり各家庭に二人、三人の子供達も増え、昭和三十年代の夏休みはバス1台をチャーターし、毎年海水浴に行くのが子供達の楽しみでした。その子供達も今は五十代、六十代となられ、町内には、子は一人も居られず昭和四十年頃から子供、青年ゼロ人という現象が今も続き、高齢者ばかりで学区の行事もお手伝いも出来ず、片身の狭い思いです。平成時代に入り、大商家も五階四階建てのビルに改築され、ワンルーム二棟も出来、次々変わる会社名に淋しく感じる昨今、 昼間の人口と夜間の人口が三分の一となり心細さを感じます。百年前より玉蔵を支えてくださった先代も故人となられ、ビルの上から眺められているでしょう。玉蔵町には昔から言い伝えられた行事も何も無く、今日まで町内に事故も火災も無く、平穏に過ごされたのが誇りではないでしょうか。年頭に会計報告を兼ねた親睦食事会があり、会社代表、一般家庭の方々も参加するのが唯一の行事です。何年先になるか判りませんが、一人息子がこの地に戻り、地域のお手伝いが出来ることを念じています。    

玉蔵町 田和 

第十三回 笋町(たかんな町)

 

町名を笋町(たかんな町)と云う。「筍」の古名である。当町には、祇園祭山鉾の一基「孟宗山」がある。支那「元」の郭居業編の二十四孝の一人、「孟宗」(220〜280)が雪中に筍を掘り当て病中の母に供した処、母 の病が癒えたという古事に因み、「孟宗」公を御神体として祀っている。 その由来が町名になったと思われる。

 故くは、明応九年(1500)の祭り巡行の定(くじさだめ)で十一番「まうそう山」と、八坂神社の前称、祇園社の記録にある。それより前、応仁の乱以前から「孟宗山」が祭りに参加していたようだが、定かな記録はない。  応仁の乱(1467〜8)、天明の大火(1788)、元治の兵火(1864)と幾度も大火により焼失したが、その都度町内在住の大店、豪商達の財力と信仰心、そして寄町や他地域の人々の浄財により再興され現在の形になったのは、明治初年からである。

 元治の兵火の時は、孟宗山の「町宝」の保管を町内在住の人々に分散され、「町」の数々は焼失を免がれ現在に至っている。大正・明治になり、大火災に見

舞われる度に、山の再興に尽力のあった町内有力者の土地が、大手金融機関の

所有するところとなった。

 それでも大戦後、暫くは町衆と呼べる住民は七、八軒を数え、地蔵が祠られ

ている町会所で、町内在住の十名程の児童の健やかな成長を願って地蔵盆が催された時期もあった。 しかし住民は域少し続け、今日現在では住民はゼロ、祭りの担い手としては、4・5軒を数えるのみであるが、町内会会員として、又、孟宗山保存会の委員として、町内在中の企業及びその従業員の方々の心強い支えにより「祇園祭・孟宗山」の諸行事、運営が可能になっている。

 京都に住み、又、京都で営みをする人々や企業の、地元京都への感謝の想い

「祭り」を支え,存続の原動力となっている事を思わずにいられない。

                                   笋町・佐藤征司

 

第十四回 鯉山

こいやまちょう

鯉山町の町名の由来は、中国の故事「黄河の中流にある激流の難所で、鯉が滝を登って龍になり、出世開運の神として祀られた」という、『登龍門』にちなんで作られた祇園祭の山の名をとって慶安元年(一六四八)から鯉山町と名付けられました。 鯉山の工芸装飾品が貴重であるのはご承知のことですので、今回はこの鯉山にまつわる「むかし話」が伝えられているのでご紹介します

むかしむかし、室町の六角あたりに、たいそう正直なひとりの男と、曲がったことが金輪際きらいな大家さんが住んだはりました。ある日、大家さんが用事で大津まで行かはった折、ことなく用事をすませて受け取った小判三枚をふところに、琵琶湖の渡し船に乗らはったんやそうどす。ねぼけまなこでふところから手ぬぐいを出そうとしはったその拍子に、さっき貰うたばかりの小判を三枚とも琵琶湖に落としてしまはりました。広い琵琶湖のことみつかるはずがおまへん。しかたなくあきらめて京にもどると、大家さんはさっそく正直もんの男に一部始終を話さはったそうどす。

それから二、三日したある日のこと、大津から川ざかな屋がおっきいコイを売りに来たので、その男がコイを買わはったんどす。そして、そのコイに包丁を入れはると、なんとまあ不思議なことに腹の中から小判が三枚とび出してきましたそうな。正直もんの男はとっさに大家さんがこないだ琵琶湖で落とさはった小判に違いないと、大家さんの所に飛んで行かはりました。ところが大家さんはしばらく考えたうえで「その小判はコイを買うたもんが貰うのが当たり前や」と言うて受け取らはりまへん。そう言われた正直もんの男は「こないだの話とつじつまが合うやおまへんか」と言うて譲ろうとはしまへん。二人ともとうとう困ってしもて、お役人に相談することにしはりました。

お役人は二人のあまりに美しい心にうたれ、いつまでも後の世の人にこの話を伝えたいと思わはったんでっしゃろ、「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたらどうじゃ」と話をまとめはったんやそうどす。二人もえらい喜んで、近くに住んではったあの有名な左甚五郎はんに見事なコイをこしらえてもらはりました。今でも、祇園さんの祭りには、まるで生きてるみたいに元気で立派なコイの姿を鯉山に見ることができるんどす。京都のむかし話研究会 編より)

このように鯉山には誇りにしている「むかし話」があり、子供会で紙芝居などにして話を伝えています。一時、町内から子供がいなくなり地蔵盆の行事がなくなりましたが、現在はローレルコート室町に住む子供たちが集まり、賑やかに地蔵盆や子供会を開催しています。先人からの歴史を大切に受け継ぎ、今さらにローレルコート室町居住者のパワーを加え、町内会の運営企画を話合うマンスリーサロン、趣味の会として園芸クラブ、茶道クラブが定期的に開催され、活力溢れる新たな町の歴史が作られようとしています。

★データ

南北に通る室町通をはさむ両側町。北側は六角通、南側は蛸薬師通(四条坊門小路)に面する。  

1組(東側)12軒、2組(西側)18軒、3組(ローレルコート室町)135戸、駐車場3件、空地1件。

鯉山町会長 浅見 儀明

 

第十五回    天神山町

天神山町には祇園祭山鉾の一基の「霰天神山」がある。お祭の時には、町家(ちょういえ)と呼んでいる一軒路地の奥座敷にお社を組み、その中に一寸二分の天神様をお祀りする。その謂れは、室町時代の永正年間に、京都に大火があった時、俄かに霰が降ってきて、大火はおさまり、その霰と共に天神様が降下され、屋根に鎮座したという故事による。平素は、中庭の奥にある土蔵や納屋に、お祭りのすべての物が収納されている。昔ながらの京町家のたたずまいである。

昔、この家屋のすべてを町内に寄贈された音羽東仙氏のお墓は、泉涌寺の法音院にあり、毎年欠かさず春秋のお彼岸には、町内の人が揃ってお詣りをしている。大日盆会は、中庭の祠にいらっしゃる大日さんを奥座敷にお祀りして、数珠回しをする。沢山の子供達と回したのは、何時ごろだったろうか‥。最近は数人の大人だけの時もあり淋しい限りである。お火焚きは中庭で各家の家内安全のごま木をたいて、空高くお祈りをしている。足元のツワブキの黄色の花も、共に焔を見つめているひと時である。お千度は、十年ほど前から婦人部の行事とし、八坂神社にお詣りをして、天神山の各家の無病息災を願っている。 戦火が激しくなった終戦の前、室町四条上るの「吉忠」が軍需工場になった。その周りは危険とのことで「家屋強制疎開」というおふれが出た。この天神山町の南東に当たる数軒が、その大店と背中合わせであったので、立ち退きさせられ、家屋は全部つぶされた。戦後、何時頃だったか忘れたが、その空き地内で町内の人が集まって盆踊りをした。桶をたたいて音頭をとってくれた人も老いたが、その音はまだ耳に残っている。

天神山町 伊藤俊子

第十六回  六角町今昔


     祇園祭の北観音山を曳きだす六角町は、平安時代の中頃、自由市場の通りとなっていた町尻小路と六角通の交点である事から町名となり、賑わっていた。 嘉元四年(1306)の公文書に「六角町生魚供御人‥‥」の記載あり、それによると当町は湖国の生魚を御所へ納入する特権商人の集住する町であり、そのすべてが女主人であったというのである。
祇園御霊会に山鉾風流が登場するのは十四世紀後半からのことであるが、六角町文書に記す、文和二年(1353)、観音山の眞松が北嵯峨観空寺村より届いたという事と合わせ読むと、創設期の観音山が女主人達の見識と財力に支えられていたと言えようか。
江戸時代の寛文十三年(1673)の六角町法度では検校座頭、雪駄屋、染物屋、うどん屋、鍛冶屋、博労屋、油屋等の職商の居住を禁じており、この頃から呉服屋の町内に移行しつつあったのであろうか。元禄直前には三井両替店が居を構え、享保年間に伊藤呉服店(現・松坂屋)が支店を出したことから、充実ぶりが知られよう。
創設当初から曳き山であったが飾り大屋根の無かった観音山を現在の姿に完成させる大事業が文政十一年(1828)から嘉永四年(1851)に原資二千両で実施されたのだが、三井、伊藤両家で壱千五百両を寄進したのであった。
元治の大火で消失した家々のうち最先に再建されたのが八棟造りの三井屋敷、これは昭和三十年代まで存在したが財産税で物納。雨の日は三井の総門で町中の子供達が遊んだものであった。
明倫プール開設の昭和三十六年頃からが呉服業界の絶頂期、北観音山は芸術員会員・山鹿清華に手織錦の水引を自主依頼したほどだが、盛んな商行為と裏腹に子供は激減、子供会の予算がゼロとなって久しい。
夫婦で参加する新年会にお千度。町三役が務める春秋彼岸絵とお火焚き。晴れの祇園祭。
マンションの一棟も無く、町住者全員が保存会の構成員、今では国や自治体の補助を得て北観音山の懸想品はピッカピカ。ちまき販売等もせず旧習を貫いている。責任役員も「六十代前半」が合言葉。                     
                                                                                                    六角町 吉田孝次郎

 

第十七回   小結棚町


 
小結棚町、町内では、また正式には「こゆいだなちょう」と読みます。「こむすびだな」は今の漢字読みをしてしまった弊害と言えます。
「こゆい」とは侍烏帽子を着用する時、髷のもとどりと烏帽子とを結び付ける元結に相当する組紐を言い、これを扱う店が多くあった為、町名となったものと思われます。
また、応仁の乱(一四七七)前に既に鉾を創建していたのに何故「放下鉾町」でないのかとも聞かれますが、戦終息の後、町小路(新町通)が逸早く再興発展した時、伝統を愛し敢えて古雅な名称を用いたようです。
明治時代まで、この町内の住民となる為には、転入者は「寺請」等の保証人証文を町年寄りに出し、許可を得て居住できた事を古文書より知る事が出来ます。
そして町内町衆は会所にて「」の確認や、謡・俳句会、食事会等々多彩な行事を行っていた記録文書(俳句の作品等も)が鉾関係資料ともども数多く残っています。
これは天明の大火(一七八八)にも、禁門の変(一八六四)にも、土蔵が全焼する事無く残ったからで、今は京都歴史資料館に「小結棚町文書」として預けております。また、鉾の懸想品の古織物は国立博物館等に寄託しています。
現在の土蔵は、嘉永二年(一八四九)に建替えられ、母屋の会所(一八六七年造営)ともども市登録文化財に指定されており、七月祭事には鉾と同じく人気スポットであります。
祇園祭の祭事は保存会として伝統と仕来たりを守り続け、一時的な創作、パフォーマンスの名の下の我流は快しとしません。
しかし運営は、大正時代既に財団法人とし、提灯の電灯も一番早く取り付け、稚児人形も舞が出来る三つ折れ人形とする等、新取の気概の強い町内でもあり、この伝統も大切にしたいものです。
町内行事は、町内会登録の三十数軒による春の八坂神社お千度、夏の地蔵盆(子供の居ない今、お地蔵様を円山安養寺に預け、大人だけでの供養です)秋の物故者慰霊祭、そして新年会を続けています。
我々の祖父、父世代の昭和四年迄、鉾に生き稚児を出していた町内のある気風は今後とも維持していきたいものです。
                                                                                                                       小結棚町 川北 昭

 

第十八回   手洗い水町

 

町名は、町内にある八坂神社御手洗井戸に由来する。 由緒によると、この地は往古祇園社御旅所社務、藤井助正の屋敷地で、庭前に牛頭天皇社を建て、毎朝この霊水を奉供した

永禄11年、織田信長上洛して御旅所を移転の後も、この井水の格別なるを聞き、井戸に施錠し、鍵は町分に渡し置き、毎年、祇園会の時のみ之を開いて諸人へ神水を施行せしめたと言う。

然して東竹藪より竹2本を伐り取り、山科より丈八の松2本を持参して井戸前の鳥居に結びつけて七五三縄を張るを例とした。

以来連綿現在に及ぶ。明治45年3月、烏丸通拡張のため、旧地より原形のままその東方現地に移す。深さ七丈半、水質清冷にして都下の名水として著名である。

「毎年7月14日に井戸を開け、24日に閉じる」とある。現在もこの行事は続いている。当町内は法人ばかり9社で運営しており、各社協力的である。

町内の行事は1月の新年会に始まり、3月に物故者法要、5月にお千度、7月に切符入り、15日に井戸の遥拝式(ちまきとトビウオの干物を供える)18日に御旅参り、10月に秋のお千度で終わる。

近年(1970年ごろ)迄は長刀鉾の稚児が、15日昼過ぎに御手洗の井戸で手を清め、ちまきを奉納されていたが、稚児の行事が簡素化され、現在は行われていない。

安田多七渇長 安田守男 

 

第十九回 御倉町

 

町名由来は元亀二年(1571)から宝暦十二年(1762)の間に刊行された「立入宗継文書」「京町鑑」等の古書物に「御蔵町」「御蔵ノ町」「御倉町」の名称が見られる。

しかし後年発刊(1665)の「京雀」なる書物には、当時町内の北西に腹帯地蔵尊が祀られてあり、元亀年間の戦乱時、町民はこの尊像を守護すべく安全な寺院へ移そうとしたが何故か尊像は動かず、町内にて「御蔵」を建立、安置せりとある(町内由来説)。一方、西三条内裏座敷殿が当町に在った事からその官庫あるいは祇園会の神庫に関係しているのではとの由来説など古きが故に特定し難い。前記の腹帯地蔵尊はその後度々の戦火や火災にもその難を逃れ、江戸末期には町内中央南側(両替町三条の突き当り路地)に安置されており、その後土地が西村家(現叶鈬`)の所有となり、尊像も同家に譲渡され、今日に至っている。

昭和五十六年八月に京都国立博物館の文化財修理所で解体補修が行われ、平安期の典型的な腹帯地蔵尊の秀作と確認。京仏師の手で立派な寄木造りの彫像である事も判明。現在叶鈬`ビルの中庭には、重厚な扁額掛かる二人塚様式の祠堂あり、中には高さ約1m、光背、台座を持つ立派な菩薩立像が祀られ、隣には日蓮宗の高僧の坐像も安置されている。御倉町一帯は平安京三条南殿跡。鳥羽上皇の邸宅地跡であり、御所庭園「遣水」の遺構が発掘され一般公開されている。平安後期から鎌倉時代にかけての約百五十年間の院政時代の偉大なロマンを秘めた町内でもある。 

時の流と共に静かだったこの界隈も交通量繁く、特に街角の放置自転車には行政、地域自治体も追放策に四苦八苦しているが、来年の祇園祭還幸祭には勇ましい和太鼓演奏の下、御神輿三基の御巡幸を予定している。

                                     溝渕寿郎(京ことぶき渇長) 参考文献「明倫誌」「日本歴史体系」他「町内各位」

第二十回 西六角町

 

西六角町は「京都町名ものがたり」(京都新聞刊)によれば、『西洞院通と六角通が交差する事によって命名された町名で、十文字の町と称される。この十文字の町は町名の在り方の最も原初的なもので、北は二条通、南は高辻通、そして東は室町通、西は大宮通の範囲に所在し、その他においては殆んど見ることが出来ない。そのことは、町形成が他の地域に比して比較にならないほど早いものであったろうし、又、後の町衆に系譜をひく人々の意識も早くから生み育てられて、己が町の育成に勤めてきたものと思われる。』と書かれています。

町内の北側には明治期・日本画壇で活躍された今尾景年画伯の邸宅があり、現在、母屋は会席料理店や日本国際民間協会に、蔵はワインバー等に町家の風情を残し生まれ変わっています。南側には昭和三十年代までは三井の森(通称)があり、また、「明倫プール」がありました。昭和三十六年に竣工、町内南側中央に位置し、幼児教育、小学校の授業、放課後、夏休みの一般開放、時には体振の催し等、毎年夏の賑わいを見せていました。小学校閉校時に無くなりましたが、近くに住む子供達が水着姿でプールに通う様子が懐かしく思い出されます。現在は京都逓信病院となり、町内の人々をはじめ、学区の皆様のホームドクター的存在で日々お世話になっています。また、京友禅の中心的存在である京都工芸染匠協同組合が近年転入して来られ、先人達の技を後世に伝承すべく活動されています。 他にも両側には呉服問屋はもとより、表具師、釜師、茶道具屋、話題のレストラン、外人向き町家ホテル等があります。

昨今、町内の人々は先人から受け継いできた町衆の伝統・文化・心意気を肌で感じ、次世代の人々が暮らしやすい町づくり、町内会運営に取り組んでいます。数年前に町内会規則の見直しも計り、一歩一歩前進していきたいと思っています。

 辻井健男

 

第二十一回 西錦小路町  

町名の由来は定かではない。錦小路通にあり、西洞院に面しているので「西錦小路町」と呼ばれたと思われる。

町内の真ん中、北側に「亀薬師」と呼ばれて近隣に親しまれている「延命山亀龍院」という古刹がある。建立は古く、寺伝によれば天長六年(八二九年)と言うことだが、戦乱、大火をくぐりぬけてきたのであろう。

平安末期の京都の古地図を見ても、東薬師堂、西薬師堂とあり、大きな寺域を誇っていたと思われる。本尊は亀の甲に乗った薬師如来立像である。『亀竜院竹之坊』と呼ばれため、町名が一時、竹之坊町と称した時期があったらしい。

町内のいろんな行事は、この寺を中心に廻っていたようだ。昭和三十年代には、世帯数が六十を越え、和装関係を主とした町で今思い起こしても、呉服、白生地、悉皆、下絵、シミ落し、紋上絵、湯のし、印し染め等の職が軒をならべ、加えて料理仕出し、製パン、青果店、美容院、電気店、文具店、牛乳屋と商いの盛んな町であった。

町内の行事は、新年の挨拶、春のお千度、地蔵盆、子供中心の秋のリクリエーション等が行われた。子供の数が三十人近くの頃は地蔵盆も盛大に行われ、大人たちは福引、ゲーム、おやつに趣向を凝らし、亀薬師の境内を借り、賑やかに盆踊りを楽しんだ頃もあった。  

 

錦睦会と名付けられた町内の親睦会が昭和二十九年に作られ、高辻西洞院の管大社天満宮で三十二名が参加して、発会式が行われている。戸主ばかりで、今から考えてみると男中心のそしりは免れないと反省している。

異業種の人達が集まって情報を交換する貴重な耳学問の場でもあった。町内の様相が変わったのはマンションの出現によるものだった。

現在は六棟あり、主として単身者向けのものである。推定で七十〜八十戸と思われる。居住されている方達と町内会とのかかわりは殆んど無い。町内の世帯数は減少し、現在二十九、居住者は約六十人である。このほかに昼間のみ営業の店舗が七店という状況である。           子供は少なくなり、お年寄りの一人暮らしが増えている。助け合い、安心して暮らせる町を目指し、みんなの親睦をはかっていきたいと考えている。 

                                                                                                                                  五藤

 

                                                 第二十二回

                『七観音町雑感』

                           

  明倫学区内の大半の町内でそうであったが、ここ七観音町でも烏丸通から西に入る長い路地があった。そこには昔風の長屋が多くあり、また地蔵もあったのです。ついこの間のような気がするのですが、よくよく考えてみればもう二十年以上も前のことであります。今では、そこに集う住民はなく、地蔵もいつの間にかなくなってしまったのであります。その時は町内の財政は潤沢で、総会も料亭で盛大に行われたり、地蔵盆その他のレクリエーションも多数の参加で毎年催されたものです。 現在この町内では夜間人口は2〜3人である。ほとんどが勤務者である。そういったことも影響をしているのですが、七観音町としての年間行事というものは、年一度の総会がほとんどと言っていいくらいです。

 七観音町は烏丸通を挟んで東西にあります。南は蜻薬師通ですが、北は六角通の手前迄です。町内会の会員は現在二十軒です。事務所ビルが多いので、実際の軒数は会員数の倍以上はあると思いますが町内の規約によりビルについてはオーナーと一階店舗の経営者が会員義務はあるのですがそれ以外は自由なので、会員数は実態より少ないのです。

 七観音町の歴史を調べたところ、この地に如意輪山浄仏寺が建立され、そこに如意輪観音が安置されたことに始まり、後に持仏の六観音を合わせて護持院と称されました。なおこれは消滅したのであるが、後に亀山天皇が七観音院と称して再興したと言われています。そういったところから七観音町と名前が付いたとの説が有力であります。

 町内会の人ならば必ず疑問に思われるのですが、隣接町内には祇園祭の山鉾が必ずあるのですが何故この町内はないのか?これについては次のような話があります。説明したような如意輸観音があったことにより、寺として相当な誇りがあったので、八坂神社の祭り(祇園会)に参加しなかった。という説もあるが定かではない。町名の由来を書いた書物によれば、祇園会後祭りの際、町会

所で接待したとか、隣の橋弁慶山の寄町として、寄進をしたとかの記載があ

り、祇園祭と敵対関係にあったとの説はやや信じがたいと思われる。

 岩本 一

第二十三回

饅頭屋町 〜町名の由来〜

 

饅頭屋町(まんじゅうやちょう)という町名は、ビルが連なる京のど真ん中という場所にしてはユーモラスで庶民的な町名だと思われると思います。この名は千年の古都の面影を今に伝えています。

建仁寺両足院の開基竜山徳見禅師(一二八四〜一三五八)が、四十余年中国での勉強を済ませて無事帰国しました。この時、林浄因という男が一緒に渡来、この町に住みました。

浄因はここで饅頭を作り、宮中に献上したところ、天皇はたいそうお喜びになり、官女を妻として与えられました。男二人女二人の子宝に恵まれ,幸せな毎日を送っていましたが、親として慕ってきた徳見禅師が亡くなると、にわかに望郷の念にかられ、妻子を残して帰国してしまいました。妻子はここで饅頭屋を開業、大いに栄えたという事です。 

わが国での饅頭の発祥の地という訳で、これが町名の起源です。林家は一時お家騒動で京都と奈良で本家争いなどあったそうですが、この間に塩瀬と改称し、何代目かの九郎右衛門さんに子供が無く、寛政十年(一七九八)に亡くなられてから同家は絶えました。そして遺言で同家は町家として隣組に寄付され、昭和五年に売却されました。そのお金で菩提寺の両足院に石碑が建てられ、今も残っています。その地は住友銀行から今はホテルモントレになっています。ところが絶えたと思っていた塩瀬家の方が二十年程前にひょっこり訪ねて来られました。「私は今、東京で日本一饅頭所―塩瀬饅頭―という店をやっています。自分の店のルーツを訪ねてやっと辿り着きました。」との事でした。江戸時代の初めに江戸へ分家したお店だそうです。今も東京の築地で営業をなさっています。二年ほど前に訪ねてみると立派なお店でご繁盛なさっていました。

 中島良子

 

第二十四回 衣棚町

                          〜三条通りの核心〜

 

聖徳太子様は六角堂で沫浴されて、中心 にへそ石を置いて定められました。近世は、三条烏丸は 地図上の起点となりました。 鳥丸西入るは、平安京に三条東殿が大がかりに有りました。 その西、室町通から新町通にかけて、衣棚町があります。 当初は、鷹山町でしたが、北衣棚町に変わりました。整理されて衣棚町です。 平安京の三条通は、東に延び、鎌倉幕府から江戸幕府の日本橋に至ります。 西には、大阪、姫路、毛利、博多、高麗、南京、釈迦、印度とたどれます。町内にお人形が三体おられます。 お人形は、小倉百人一首にその名は、兄弟で別々に歌はれています。

翁さぴ 人なとがめそ 狩衣 けふかぎりぞ鶴も鳴くなるのお姿です 

                      たち別れ いなばの山の縁に生ふる まつとし聞かぱいま帰り来む  中納言行平

         千早振る 神代もきかず竜田川 から紅に水くくるとわ   在原業平朝臣  

祇園祭りには、お飾りにて参加しています。

  近世は、国道一号線にまでなった程でした。室町呉服店に運ぶ荷車、西ノ京に材木を運ぶ馬車や、花やかぶら売りの大原女、鳥羽の灰集め、糞便集めの細長い荷車等など交通の要所でもありました。 昭和初期は、自衛消防のポンプ車、協同の手押し水ポンプも有りました。 三条室町交差点は五色の辻と呼ぱれ、いにしえを偲ぱれています。三条衣棚一角には、茶人廣野了頓丁邸、医学者の簑和田邸、千切屋茶邸、西村千吉屋、近江屋、井筒屋.、亀屋、伊豆蔵屋、大文字屋等々おられました。  

 今はパークホームズ、ヴィヴァーチェ・マンションがあり、住民百二十軒になりました。京都医健学校があり、昼間の人口も五百名以上です。頼もしい町です。

記 八田 章

 

第二十五回

山伏山町

 

         一月.新年会        五月.法要会      六月.大峰山参拝     

          七月.祇園祭          八月.地蔵盆           

法要会は毎年五月に大宮通松原西入る、中堂寺において行われます。

山伏山の町家(ちょういえ)寄贈者、近江屋与兵衛氏の法要をお勤めする為、町内各社が、参加します。

古文書によりますと近江屋与兵衛氏の遺言書が当時の町内役付諸氏に残されております。

現在町内会員は法要の席で家運繁栄、身体健全を祈念して法要、先祖様に感謝を再認識している次第です。

祇園祭山伏山の御神体、浄蔵貴所は大峰山の修験者でありました。祇園祭の1ヶ月前に町内会有志により、お祭りの無事成功を願い、毎年、大峰山に参拝しております。

また、我が町内には「ゆめあわせ地蔵尊」がいらっしゃいます。上京区の勘解由小路室町(かげゆこうじむろまち)に一院を建立して安置されましたが、応仁の大乱に御堂は焼失、その頃、山伏山町に圓空上人という密教の僧がおられ、ある夜、夢に一人の比丘が現れて、「我は勘解由小路の地蔵なり、久しく比所の古井戸の中に在りて、諸人結縁の利益を失う、汝早く取り上げよ」と告げられました。町内に同じ夢を見たと言う者二人現われ、不思議に思い古井戸に行ってみますと確かにそこにお地蔵様がおられ、奉安するに至り、「ゆめあわせ地蔵尊」として現在まで山伏山町家に安置し、毎年八月に法要を営んでおります。  記 村中正明

 

 追記 現在、住民三世帯とアルス室町マンション三十四世帯です。

           次田ビルはまもなく解体され、五階建てのマンションになる予定。

 

第二十六回

   炭之座町            

 

五月 お千度

八月 地蔵盆

 

 炭之座町は、四条通りと錦小路通りに挟まれた小さな町内です。現在の世帯数は二十五世帯で内マンション二棟、会社二棟で、四条通から一歩入るだけで街中でありながら閑静で住みやすい町内です。

 

 炭之座町は、新町通りと西洞院通りの間の通りであることから、「釜座四条上ル」「釜座錦下ル」と言った方が、馴染み深いようです。

 また、「炭之座」の町名を調べたところ、その由来は不明でしたが、釜座通りとの関係から炭を扱う場所があったのではないか、とのことです。戦前は、室町界隈に近いこともあり、のりおき、しっかい、ゆのし等、着物に関係した職住一体の家が多くありましたが、戦時中に多くの家が疎開し、その後町内に戻られた家は五軒ぐらいだったそうです。

 炭之座町も高齢化が進み、一時期は子供の人数が減っていましたが、世代交代により現在では小学生以下の子供の人数も六名に増え活気が出てきました。路地なので比較的、交通量も少なく、楽しそうに遊ぶ子供の声が聞こえてきます。また、毎年八月に行われる地蔵盆では、様々な年代の子供同士が一日中遊べる貴重な機会となっています。

 時代の流れに伴い、マンションや新しい住人の方々が増え、今までになかった課題もありますが、幅広い世代でまとまって問題を解決しています。    

  記 宮川

 

第二十七回 占出山町

〜お祭りだけは守り抜く!〜

占出山町は、神功皇后を御祭神に祀られた山鉾の一つ、占出山にちなみ町名が付けられています。古来より祇園祭の伝統としきたりを守り、町内総力を挙げて継承してきました。立派な社殿を構え、安産の神様として、参拝客も多く、皆様方に親しまれています。

私がこの町内に来た、昭和40年頃は呉服商を中心に30軒近くの方々が暮らしておられ、子供たちも沢山遊んでいました。町内住民同士の交流も盛んで、町内全員顔見知りでした。  

お祭りが始まると、男性、女性も大勢集まって準備に取り掛かり、おまけに町内の長老から怒鳴られ叱られたりして、祭りのしきたりを覚えたものです。女性たちも会所に集まり、お守り札、チマキなどの包装、袋入れなどに大忙しでした。宵山では子供たちが集まり、わらべ歌を歌って、お守りや、チマキを売っていました。私の宅でも、屏風を飾り、女性は親戚知人の接待で大わらわだったことを思い出されます。

時代は過ぎ、今はまちの様子も一変し、呉服屋さんに代わって飲食店が軒を並べ、賃貸マンションが立ち並び、従来からお住みの方々が激減し、今夜間人口は3世帯となりました。子供たちも居なくなり、寂しい限りです。しかし町内を離れた元町内の人々や、一部テナントの方々が、「祇園祭だけは守り抜く」との強い思いで、頑張ってくれています。若い方々も数人参加しておられ、これからの祭りの担い手が育つものと期待しています。

来年には全ての懸想品が完成し、長年取り組んできました復元新装事業が終了し、次の世代へ引き渡すことができます。これからは時代も変わり、町内も変わっていくでしょうが、祇園祭りはこれまでのように、受け継がれていくことと思っています。

占出山町内会長  小野和夫(記)

このコラム「町内探訪」は今回で27。明倫学区27内全ての町内を掲載できました

各町内から多大なご協力をいただき誠にありがとうございました。