
このコーナーでは、27町ある明倫学区の各町内を紹介していきます。
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昔(江戸時代)は、祇園祭には東隣の衣棚町と共同で「鷹山」を所蔵しており、西洞院通には西洞院川が流れていたそうで、そのことから染色業、酒造業、鋳造業が発達したことなどが釜座町の栞に書かれています。現在も大西家、高木家がその流れを継承しており、大西家の美術館には初代よりの茶釜や、設計図、それぞれの時代の茶人との手紙などの資料が展示されています。 釜座町では、町内に八階建てのテナントビルの建設予定が持ち上がったのを機に、平成3年より建築協定(高さ20m以下、6階建てまで、ワンルームマンション・風俗営業の禁止等々)を結び、町内の景観保全と健全な生活を守るために町民が一致団結してきました。 平成13年に建築協定は2度目の更新(5年毎)を迎え、世相の移り変わり、また建築協定の持つ有効性に限界が続出しその意義が問われてきています。そもそも隣人同士の約束事から拡がって結ばれる協定であり、個々人の繫がりの中におのずと生まれてくるお互いの生活を保障し合うという理想的協定の意義をもう一度考えねばならない時期に至っています。 現在、人口は18世帯54人とマンション3棟29世帯(平成14年8月現在)、店舗16と言う構成です。1月には新年会、4月は総会、8月地蔵盆、11月斧屋の法事が釜座町の主な行事です。 釜座町 長谷川
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第二回 菊水鉾町
元治元年(1864)、禁門の変により元の菊水鉾は焼失したが、昭和28年、鉾頭に透かし彫十六弁の菊を持ち、唐破風屋根を抱いた昭和の菊水鉾として、焼失前の華麗な姿を再興した。 寛永十四年(1637)の洛中絵図には「ゑずや町」とあり、他の絵図文献等に「ゑひすの町」とも記され、元禄末期の洛中絵図に初めて「菊水鉾町」の町名を見る。 室町時代中頃には 菊水鉾町 川塚錦造
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それゆえか明治時代まで当町は名を伊藤町と呼ばれていた。 江戸時代、今の「八幡山町家」に二条城御用師の錺職であった藤田大助というものが住んでおり、寛政九年、二条城金蔵より四千両盗みだした。 一年五カ月後に大助の犯行が明らかになり、四千両も無事に帰ってきたが、大助は獄門磔になったとの記述が見える。 三条町は、祇園祭では後祭に「八幡山」を出す山鉾町である。御神体は厨子入りの応神天皇馬上像。堀川五条の若宮八幡宮より勧請したものである。 「八幡山」の京都市文化財「祇園祭後祭屏風」は禁裏御用絵師、海北友雪(海北友松の弟子)の作で、山鉾町唯一残る祇園祭屏風として有名である。祇園祭時にしか公開されない。 畑 傳兵衛(琴伝)
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「京都坊目誌」によれば町名起源、不詳、布袋山町と言ふ。慶長以来毎年、祇園會に布袋の像を安せる山棚を出す。 像は支那の梁の高僧・布袋師、名は契此(かいし)、長汀子(ちゃうていし)と號す。明州泰北県(みんしゅうほうほくけん)の人(浙江省北東寧波にんぽう)。古くから遣唐使以来の対日貿易港として榮えた地。今の本尊は支那伝来の白青瓷に金銀青丹を施した洵(まこと)に優れた磁器であり高さ五寸の座像左右に唐子童子あり古来天魔厄神を除き寿福を増して子孫を繁栄せしめるものとして信仰されている。
因云(よりていわく)祭日七月十七日、二十四日とす、蛸薬師通を区域とし。同通以南松原に至るを十七日(先祭)とし、同通以北を二十四日(後祭)とす。共に氏子名町は名家の筆による屏風を陳列往来の人を観覧せしむ、其の装飾極て美を競ふ、都下一の大盛況とす。この記録をもっていかに姥柳町が京都祇園會の一大中心地であった事が、推察されよう。
オルガティーノ、フロイスが中心となって信長の庇護のもとに建設されたもので1575(天正三)年に着工、1576(天正四)年献堂式をおこなっている。狩野元秀がえがいた「京名勝図」扇面図によって会堂の構造や庇護の一端をしのぶことが出来る。珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれ京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。 このことにより この周辺の町家の生活と文化 美意識が広く深くなり山鉾町に渡来懸装品が多く輸入されることとなる。天正十五年(1587)九州征伐を終えた秀吉は宣教師追放故令を発し、キリスト教弾圧に転じ、南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地には復興されなかった。 朱印船貿易史権威 川島元次郎名著「南国史話」─銭五の密貿易船の行方を尋ねて─(川島義明蔵)考え合わせ十六世紀「イーリアス」図タペストリー五枚 渡来の謎について考察すればまことに歴史とロマンに満ちた町である。最近北国新聞記事、十六世紀の南蛮寺二一世紀の金沢城共通する「建築家 高山右近」時空を越えた二つの建物がよく似ている。金沢城の「三階建」「入母屋」「黒隔柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を京都の南蛮寺にみることが出来る。右近の巨大な遺産であると紹介されている。 元明倫小教頭松本利治先生(昭27・4〜33・3在籍)大著、「京都町名変遷史」には姥柳町は我国における西欧文化の中心であり京洛における先端的な存在であった。明治〜大正元年、室町の大家吉田忠三郎家(吉忠梶j、藤井善七家(丸池藤井梶j、大店成宮喜兵衛商店、伊藤産業梶i松坂屋)等が存在していた事が記されている。 昭和40年代よりビル化に変貌その跡地にはテナントビル、和装呉服商社 駐車場等になっている。来年(平成16年度)七月には一時中断(七年間)していた飾山が新築マンション業者の御好意と援助により復興出来る事になった。この支援に対して甘受することなく 山鉾町として又、三十三基めの平成の山として再興することを待望するものであります。 (京都町衆文化研究所・川島義明 識)
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平安後期、新町通は町通りと呼ばれ、商業が発達しはじめ、都のメインストリートだったのである。それから今日に至るまで、入れ代わり立ち代り町人(マチビト)が住み続けた日本最古の歴史を持つ通りが新町通りであった。室町時代は中心軸はむしろ室町に移ったが、新町通の繁栄も続き豊かな商家が増加した。祇園祭の山鉾もこの経済力を背景に発展したものである。応仁の乱以前に今の百足屋町からも、南観音山のもとである「ふだらく山」が出ている。
江戸初期には北観音山とともに、南観音山も曳き山となったが、元禄頃にはまだ屋根はなかった。その後テントのような屋根覆いができる。天明の大火(1788)で大被害を受け、観音様の頭と胸の上部を持ち出すことがやっとだった。南観音山の再興は、寛政八年(1796)のことである。 祇園祭が盛大になり、山鉾が絢爛豪華になるのは、文化文政時代(1804〜30)であるが、この時期に南観音山も数々の立派な懸装品を整えている。土蔵の再建は天保二年(1831)のことだった 幕末には、元治の大火(1864)があり、土蔵は残ったが、多くの被害を受け、文書類も失った。実はそれ以前から南観音山は借財の返還に四苦八苦し、元治の大火後、山を出したのは明治十三年(1880)のことだった。この年に町内会所も再建している。 明治時代には、名医新宮涼閣が町内に住み(C)、その後現在の伊勢長邸に明治・大正に活躍した大実業家田中源太郎 南観音山の財政がともかくも安定し始めるのは昭和四十一年(1966)に保存会が財団法人となってからである。保存会役員や囃子方のメンバーに女性が参加しているのも南観音山の一つの特色であろう。今年の巡行にも女の子四名が囃子方として参加した。祭の技術者として、懸装品の補修・修復や浴衣の下絵制作にも町内居住者があたっている。 京都市は田の字型容積率400%の商業地域を「職住共存地域」と呼ぶが、百足屋町は「職住祭共存地域」と言ってよいのではないかと思う。
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現在は、飲食・1ルームマンション・問屋・事務所・住居等に使用されている *この記事は、本や親類そして知人などからの資料を参考にさせて頂きました。
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室町通りの三条から六角の間が、今回ご紹介する烏帽子屋町です。 平成17年の4月には新しく出来るマンションの1階に黒主山の収蔵庫が誕生し、お祭り期間はロビーが町会所になります。 大田 正樹(烏帽子屋町)
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鳥丸通りと室町通りの間の六角通りに面した北側、南側の家並み二十軒程の 町内を「骨屋町」と申します。
「骨屋町」の「骨」と聞いて大方の人が怪訝な顔をされるか、聞き直されます。 「ホネ」とはあの「骨」の「骨」ですか?そうです。「コツ」の「骨」です。 ヘエー?!と驚いた顔をされます。説明をします。「ホネ」は「骨」なのですが、 「扇骨」なのです。 「扇」「扇子」「団扇」の骨のことなのです。この「扇骨」を専門に作る職業、職人の集団がかつて住まいをしていた町内であったとのことです。現在は「扇」に関係しているお宅は一軒もありません。
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廣野了頓はこの地で茶道を広め、豊臣秀吉や徳川家康も了頓邸を訪れお茶を楽しんだそうです。実在が証明された歴史的人物の名前が町名につけられたところは数少なく、由緒ある町名です。行政区では了頓図子町ですが、各家庭の戸籍上の町名は衣棚町、三条町,玉蔵町、了頓図子町と夫々に違います。選挙の時は投票所の受付で自分の戸
了頓図子町町会長
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今では想像も出来ないでしょうが、平日の真っ昼間から仕事中の店員さんと道路でキャッチボールも。 そんな明倫学区の二十七ヶ町のひとつ、橋弁慶町は蛸薬師通烏丸室町間の両側町です。応仁の乱前より橋弁慶山を出す故に、天正(1573〜1592)の頃より今の町名となったようです。 現況は他町同様繊維問屋が多かったのですが、近年、テナントビルが建ち、様変わりはしていますが、マンションはありません。戸数24戸、現在夜間人口は10世帯25人です。 昭和14年(1939)発行の明倫誌によると夜間人口は21世帯211人で隔世の感があります。 当町のお祭り以外の町内行事を列挙すると、一月新年会、三月春季施餓鬼・町内総会、四月保存会総会、五月橋友会旅行、八月ゆかた会(家族・商社の方も一緒に)、九月秋季施餓鬼、十月ゴルフコンペ等です。 御山の場合、昔から牛若殿と弁慶殿の担当は固定しているがその他細かい役割分担はありません。しかし、当座になると程よい加減に分散しきちんと見事に仕事が完了します。 沿道の見物客へ「町内の皆が力をあわせて守り続けた橋弁慶山です」と裃姿(かみしもすがた)で供奉を終えて無事帰町。町内はこの充足感を一人占めする贅沢を頂いております。
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大八車やリヤカーが行き交い、鬼ごっこ、隠れん坊、時には飛来する蜻蛉や蝶に網を持って、駆け回っていた裸足の子供達、そんな時代から六十数年、我が不動町は、当時の面影を残す蔓の家並みの中に、近代的なマンションが建ち、改築・新築された会社や民家が程よく調和がとれ少しずつ変貌を遂げてきました。当町は蛸薬師通の新町と西洞 町内の由来を記しておきます。本能寺の周辺だった西洞院蛸薬師の古井戸から多数の石地蔵とともに不動明王の石像が発見され、石地蔵は各民家が奉り、不動明王は、町内に祠を設け奉ったことから町名になったと言われています。寛永十四年(約370年前)、洛中絵図(市内の名所や生活風俗を描いた絵回)に不動町が記載されています。嘉永期(約150前)代表作「雪中宇治川図」で知られる著名な画家塩川文鱗が当町に住んでいたとされます。「京都市の地名(平凡社)から一部引用」 当町の行事を紹介しておきます。 一月年賀の集い。元旦の朝、不動明王に詣り、八坂神社に向い参拝、町内会長の挨拶などを行います。年頭のけじめとして続けていくつもりです。(毎年十名前後の参加者)八月不動明王奉祭。祭壇を設け不動明王を奉り、瑞蓮寺住職(新町蛸薬師)による読経で当町の物故者を数珠回しとともに法要します。十月お千度詣り。八坂神社にて行います。御千度札を持って神殿の周囲を回り、全員で家内安全、悪疫除難の祈願を受けます。その後、ホテルなどに移行し、和気あいあいの中、町内の総会兼昼食会を行います。毎年四十数名の参加があります。近年、園児と児童が増えて、その若き両親の積極的な参加により、伝統的な風習や儀式が継承されていくことが大変喜ばしく思われます。 最後に当町の特色として、前述の行事の担当役員、それに掲示回覧係と、役割分担していることです。会長が任命した各役員は、それぞれの行事や役目を計画し実行します。当町も高齢化、独居世帯が増えています。誰もが安全安心して住み続けられる町内にと向上していきたく思っています
不動町役員
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西洞院から六角新町の急な坂を、山積した荷台を引いた馬が荒い息を吐きながら登って来た時代、町の東角に人力車の溜め場があり、車夫が待機していた大正末期に玉蔵町に移り住んだのが九才の頃でした。玉蔵町一帯は安土桃山時代の茶人 広野了頓邸の跡地で豊臣秀吉もこの地を度々訪れたとか。六角通が表門で徳川将軍の御成門があり、町内の中程の三条通に抜ける通りは無かったそうです。玉蔵の名はその頃からの地名としてあり、現在の了頓図子町は中程迄表通が玉蔵であった為、玉蔵了頓と言っていたとかで明治以後に三条まで通りぬけが許されたと言います。町内南側には町家風商家が並び北側は小商売の家がありましたが、戦時中は疎開される方、引越しされる方で空き家が多く、ひっそりしていた様です。終戦後大商家には二十人、三十人と住込み店員、通勤店員さん等五十人、百人のお店で賑わいました。町内にも戦後のベビーブームもあり各家庭に二人、三人の子供達も増え、昭和三十年代の夏休みはバス1台をチャーターし、毎年海水浴に行くのが子供達の楽しみでした。その子供達も今は五十代、六十代となられ、町内には、子は一人も居られず昭和四十年頃から子供、青年ゼロ人という現象が今も続き、高齢者ばかりで学区の行事もお手伝いも出来ず、片身の狭い思いです。 玉蔵町 田和 |
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故くは、明応九年(1500)の祭り巡行の鬮定(くじさだめ)で十一番「まうそう山」と、八坂神社の前称、祇園社の記録にある。それより前、応仁の乱以前から「孟宗山」が祭りに参加していたようだが、定かな記録はない。
応仁の乱(1467〜8)、天明の大火(1788)、元治の兵火(1864)と幾度も大火により焼失したが、その都度町内在住の大店、豪商達の財力と信仰心、そして寄町や他地域の人々の浄財により再興され現在の形になったのは、明治初年からである。 元治の兵火の時は、孟宗山の「町宝」の保管を町内在住の人々に分散され、「町」の数々は焼失を免がれ現在に至っている。大正・明治になり、大火災に見 舞われる度に、山の再興に尽力のあった町内有力者の土地が、大手金融機関の 所有するところとなった。 それでも大戦後、暫くは町衆と呼べる住民は七、八軒を数え、地蔵が祠られ
ている町会所で、町内在住の十名程の児童の健やかな成長を願って地蔵盆が催された時期もあった。 しかし住民は域少し続け、今日現在では住民はゼロ、祭りの担い手としては、4・5軒を数えるのみであるが、町内会会員として、又、孟宗山保存会の委員として、町内在中の企業及びその従業員の方々の心強い支えにより「祇園祭・孟宗山」の諸行事、運営が可能になっている。 京都に住み、又、京都で営みをする人々や企業の、地元京都への感謝の想い 「祭り」を支え,存続の原動力となっている事を思わずにいられない。
笋町・佐藤征司
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第十四回 鯉山町
鯉山町の町名
『むかしむかし、室町の六角あたりに、たいそう正直なひとりの男と、曲がったことが金輪際きらいな大家さんが住んだはりました。ある日、大家さんが用事で大津まで行かはった折、ことなく用事をすませて受け取った小判三枚をふところに、琵琶湖の渡し船に乗らはったんやそうどす。ねぼけまなこでふところから手ぬぐいを出そうとしはったその拍子に、さっき貰うたばかりの小判を三枚とも琵琶湖に落としてしまはりました。広い琵琶湖のことみつかるはずがおまへん。しかたなくあきらめて京にもどると、大家さんはさっそく正直もんの男に一部始終を話さはったそうどす。
それから二、三日したある日のこと、大津から川ざかな屋がおっきいコイを売りに来たので、その男がコイを買わはったんどす。そして、そのコイに包丁を入れはると、なんとまあ不思議なことに腹の中から小判が三枚とび出してきましたそうな。正直もんの男はとっさに大家さんがこないだ琵琶湖で落とさはった小判に違いないと、大家さんの所に飛んで行かはりました。ところが大家さんはしばらく考えたうえで「その小判はコイを買うたもんが貰うのが当たり前や」と言うて受け取らはりまへん。そう言われた正直もんの男は「こないだの話とつじつまが合うやおまへんか」と言うて譲ろうとはしまへん。二人ともとうとう困ってしもて、お役人に相談することにしはりました。 お役人は二人のあまりに美しい心にうたれ、いつまでも後の世の人にこの話を伝えたいと思わはったんでっしゃろ、「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたらどうじゃ」と話をまとめはったんやそうどす。二人もえらい喜んで、近くに住んではったあの有名な左甚五郎はんに見事なコイをこしらえてもらはりました。今でも、祇園さんの祭りには、まるで生きてるみたいに元気で立派なコイの姿を鯉山に見ることができるんどす。』(京都のむかし話研究会
編より)
★データ 南北に通る室町通をはさむ両側町。北側は六角通、南側は蛸薬師通(旧四条坊門小路)に面する。 1組(東側)12軒、2組(西側)18軒、3組(ローレルコート室町)135戸、駐車場3件、空地1件。 鯉山町会長 浅見 儀明
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第十五回 天神山町 天神山町には祇園祭山鉾の一基の「霰天神山」がある。お祭の時には、町家(ちょういえ)と呼んでいる一軒路地の奥座敷にお社を組み、その中に一寸二分の天神様をお祀りする。その謂れは、室町時代の永正年間に、京都に大火があった時、俄かに霰が降ってきて、大火はおさまり、その霰と共に天神様が降下され、屋根に鎮座したという故事による。平素は、中庭の奥にある土蔵や納屋に、お祭りのすべての物が収納されている。昔ながらの京町家のたたずまいである。
天神山町 伊藤俊子 |
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永禄11年、織田信長上洛して御旅所を移転の後も、この井水の格別なるを聞き、井戸に施錠し、鍵は町分に渡し置き、毎年、祇園会の時のみ之を開いて諸人へ神水を施行せしめたと言う。 然して東竹藪より竹2本を伐り取り、山科より丈八の松2本を持参して井戸前の鳥居に結びつけて七五三縄を張るを例とした。 以来連綿現在に及ぶ。明治45年3月、烏丸通拡張のため、旧地より原形のままその東方現地に移す。深さ七丈半、水質清冷にして都下の名水として著名である。 「毎年7月14日に井戸を開け、24日に閉じる」とある。現在もこの行事は続いている。当町内は法人ばかり9社で運営しており、各社協力的である。 町内の行事は1月の新年会に始まり、3月に物故者法要、5月にお千度、7月に切符入り、15日に井戸の遥拝式(ちまきとトビウオの干物を供える)18日に御旅参り、10月に秋のお千度で終わる。 近年(1970年ごろ)迄は長刀鉾の稚児が、15日昼過ぎに御手洗の井戸で手を清め、ちまきを奉納されていたが、稚児の行事が簡素化され、現在は行われていない。
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時の流と共に静かだったこの界隈も交通量繁く、特に街角の放置自転車には行政、地域自治体も追放策に四苦八苦しているが、来年の祇園祭還幸祭には勇ましい和太鼓演奏の下、御神輿三基の御巡幸を予定している。 |
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町内の真ん中、北側に「亀薬師」と呼ばれて近隣に親しまれている「延命山亀龍院」という古刹がある。建立は古く、寺伝によれば天長六年(八二九年)と言うことだが、戦乱、大火をくぐりぬけてきたのであろう。
平安末期の京都の古地図を見ても、東薬師堂、西薬師堂とあり、大きな寺域を誇っていたと思われる。本尊は亀の甲に乗った薬師如来立像である。『亀竜院竹之坊』と呼ばれため、町名が一時、竹之坊町と称した時期があったらしい。 町内のいろんな行事は、この寺を中心に廻っていたようだ。昭和三十年代には、世帯数が六十を越え、和装関係を主とした町で今思い起こしても、呉服、白生地、悉皆、下絵、シミ落し、紋上絵、湯のし、印し染め等の職が軒をならべ、加えて料理仕出し、製パン、青果店、美容院、電気店、文具店、牛乳屋と商いの盛んな町であった。
町内の行事は、新年の挨拶、春のお千度、地蔵盆、子供中心の秋のリクリエーション等が行われた。子供の数が三十人近くの頃は地蔵盆も盛大に行われ、大人たちは福引、ゲーム、おやつに趣向を凝らし、亀薬師の境内を借り、賑やかに盆踊りを楽しんだ頃もあった。 錦睦会と名付けられた町内の親睦会が昭和二十九年に作られ、高辻西洞院の管大社天満宮で三十二名が参加して、発会式が行われている。戸主ばかりで、今から考えてみると男中心のそしりは免れないと反省している。 異業種の人達が集まって情報を交換する貴重な耳学問の場でもあった。町内の様相が変わったのはマンションの出現によるものだった。 現在は六棟あり、主として単身者向けのものである。推定で七十〜八十戸と思われる。居住されている方達と町内会とのかかわりは殆んど無い。町内の世帯数は減少し、現在二十九、居住者は約六十人である。このほかに昼間のみ営業の店舗が七店という状況である。 子供は少なくなり、お年寄りの一人暮らしが増えている。助け合い、安心して暮らせる町を目指し、みんなの親睦をはかっていきたいと考えている。
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第二十二回
『七観音町雑感』
明倫学区内の大半の町内でそうであったが、ここ七観音町でも烏丸通から 七観音町は烏丸通を挟んで東西にあります。南は蜻薬師通ですが、北は六角通の手前迄です。町内会の会員は現在二十軒です。事務所ビルが多いので、実際の軒数は会員数の倍以上はあると思いますが町内の規約によりビルについてはオーナーと一階店舗の経営者が会員義務はあるのですがそれ以外は自由なので、会員数は実態より少ないのです。 七観音町の歴史を調べたところ、この地に如意輪山浄仏寺が建立され、そこに如意輪観音が安置されたことに始まり、後に持仏の六観音を合わせて護持院と称されました。なおこれは消滅したのであるが、後に亀山天皇が七観音院と称して再興したと言われています。そういったところから七観音町と名前が付いたとの説が有力であります。 町内会の人ならば必ず疑問に思われるのですが、隣接町内には祇園祭の山鉾が必ずあるのですが何故この町内はないのか?これについては次のような話があります。説明したような如意輸観音があったことにより、寺として相当な誇りがあったので、八坂神社の祭り(祇園会)に参加しなかった。という説もあるが定かではない。町名の由来を書いた書物によれば、祇園会後祭りの際、町会 所で接待したとか、隣の橋弁慶山の寄町として、寄進をしたとかの記載があ り、祇園祭と敵対関係にあったとの説はやや信じがたいと思われる。 岩本 一 |
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饅頭屋町 〜町名の由来〜
建仁寺両足院の開基竜山徳見禅師(一二八四〜一三五八)が、四十余年中国での勉強を済ませて無事帰国しました。この時、林浄因という男が一緒に渡来、この町に住みました。
浄因はここで饅頭を作り、宮中に献上したところ、天皇はたいそうお喜びになり、官女を妻として与えられました。男二人女二人の子宝に恵まれ,幸せな毎日を送っていましたが、親として慕ってきた徳見禅師が亡くなると、にわかに望郷の念にかられ、妻子を残して帰国してしまいました。妻子はここで饅頭屋を開業、大いに栄えたという事です。 わが国での饅頭の発祥の地という訳で、これが町名の起源です。林家は一時お家騒動で京都と奈良で本家争いなどあったそうですが、この間に塩瀬と改称し、何代目かの九郎右衛門さんに子供が無く、寛政十年(一七九八)に亡くなられてから同家は絶えました。そして遺言で同家は町家として隣組に寄付され、昭和五年に売却されました。そのお金で菩提寺の両足院に石碑が建てられ、今も残っています。その地は住友銀行から今はホテルモントレになっています。ところが絶えたと思っていた塩瀬家の方が二十年程前にひょっこり訪ねて来られました。「私は今、東京で日本一饅頭所―塩瀬饅頭―という店をやっています。自分の店のルーツを訪ねてやっと辿り着きました。」との事でした。江戸時代の初めに江戸へ分家したお店だそうです。今も東京の築地で営業をなさっています。二年ほど前に訪ねてみると立派なお店でご繁盛なさっていました。 中島良子
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