夜話の座

明倫学区にお住まいの方々にはさまざまな業種でご活躍されておりますが、

普段なかなかじっくりとお話をする機会がありません。

この「まち」は歴史と伝統の残る地域で、まだまだ知らない「まち」があります。

地域のことをもっともっと知りたい私たちが京都芸術センターのご協力をいただき、

明倫学区にお住まいの方を中心に、二ヶ月に一回程度話題を提供していただき

座談する「明倫夜話の座」を始めました。

 

1.八坂神社 9.八幡山 17.京ことばの会
2.子供の頃 10きのう・きょう・あした 18.京ことばの会②
3.商店の暮らし 11.菊水鉾  
4.西村大次郎氏 12.浄妙山 *令和新シリーズ*
5.北観音山 13.昭和の映像  
6.鉾の道 14.強制疎開  
7.南観音山 15.お正月  
8.アンケート 16.鯉山  

 



                      第一回  八坂神社と明倫学区 2003.6.22

座長:中尾金次郎氏

                              祇園祭三十二山鉾中、十三の山鉾町を抱える明倫学区の祭事委員を永年ご担当いただいている中尾様より、祇園祭を中心に八坂神社の神事についてお話して頂きました。

特に、八坂神社の神輿(みこし)についてはたいへん興味深いお話でした。三基の神輿(四角形の東御座、六角形の中御座、八角形の西御座)のご神体、御霊を神輿に移す神事、神輿を支える組織の説明など、ふだん山鉾を中心に動いている明倫学区にいるとなかなか接することの出来ないことです。

新年のお雑煮を炊くために「おけら火」を頂くおけら参りについては、大晦日から元旦の夜中に頂くものと思っていましたが、実は元旦の朝5時に、本殿のお賽銭箱から投げ落とされるオケラの火が本当の「おけら火」と言うことも初めて知ったことでした。

一年の行事については「八坂神社年中祭典及び行事」が資料として配布されました。

「祇園祭は信仰か観光か?」祭りを観る見物人が出来たことは神威発揚し、共にハレの日に参加する。「祭りあう心」を失わず、伝統を継続してゆきたい。と締め括られ、ふだん聞くことのできないお話を伺いました。


               第二回 子供の頃の明倫学区  2003.8.27 

座長 加藤やす子様(骨屋町)

   寺江信子様(六角町)

東洋一といわれた明倫小学校をご卒業された加藤様、寺江様のお二人に学校の様子や子供の頃についてお話して頂ました。参加された方々も夫々の明倫小学校の思い出話をされました。

当時の校長先生は常に「東洋一の小学校で勉強していることに誇りを持ちなさい。」と話しておられたこと、講堂、雨天体操場の設備、立派な大広間、健全な身体作りのための太陽灯、運動会など多くの話題がありました。

校歌については戦前と戦後では異なることがわかり、戦前の校歌をお二人が美しく唱われ、参加された方々夫々の学校の思い出がより深くなったことと思います。

お正月には登校して式の後、紅白饅頭をもらって帰ることが楽しみで登校も苦にならなかったとか。

界隈の様子についても今では考えられないお話がありました。ご近所の方が馬と散歩されていたとか、道が砂利道で三条通の坂道で荷車を曳く、牛や馬が毎日家の前を通り気の毒なくらいかわいそうだったことや、祇園祭の宵山は二三日(後の祭)のみで、駒形堤燈の火はろうそくで風情があったこと、山の木組みはジャングルジムみたいで子供たちの遊び場だったことなど、ほのぼのとした明倫学区の様子が伺え、楽しいひと時でした。


 

                  第三回 「商店の暮らし」について 2003.9.17

座長:長谷川佳代子氏     

「夜話の座」九月は「商店の暮らし」について、長谷川佳代子さんにお話をいただきました。染色材料専門店を営んでいらっしゃいますが、草木染の材料屋として創業され、佳代子さんはその十二代目。現在はご子息明氏が十三代目としてお商売をされています。佳代子さんの子ども時代の商家の暮らしぶりをお聞きしました。

間口三間、奥行き二十間のお店に旦那さん以下、得意先周りをする大番頭、中番頭さん、胡粉の製造や染料の小分けをする小番頭さん、丁稚さんが働かれていたそうです。行儀見習いの若い女性がいつもいらして、最低一年から三、四年で交代されていたようです。その家の奥さんは家の中のことをしていて、店へは「出ることはならんかった」とおっしゃいます。

丁稚さんから小番頭への昇進については、会場参加の方々からもお話があり、十八才になれば羽織が着られるようになるお店、二十才からというところなど、お店に寄って少しずつ違っていたようです。

お休みは一日と十五日、お正月三日、お盆十五日、十六日と今では考えられない少なさです。食生活も質素で、お肉は月二回のすき焼きがご馳走だったとのこと。

戦後、商家の暮らしぶりはどんどん変わっていきますが、のれんわけをされた別家さんは今もかわらずに「ことはじめ」にご挨拶にこられているということに、京都の老舗の絆を感じました。長谷川さんはご自身のこと、お店のことを丁寧におまとめになって話されていました。また続きをお話いただく機会を持ちたいと思いました。  


 

                  第四回 西村大治郎氏に聞く 2003.11.16

  座長:西村大治郎氏

十一月の夜話は、「まちなかを歩く日」のイベントの一環として、今回は織物卸商業組合の初代理事長をつとめられた西村大治郎さんに幼い頃のこと、明倫小学校のことなどをお話いただきました。

西村さんは大正七年に室町時代から続く織物問屋にお生まれになりました。

小学校二年生の参観日に読み方を当てられて緊張のあまり声が出なくなり、そのため狂言のお稽古をし、舞台に立つようになり度胸がついたこと。

また、理科の時間に花の名前が答えられず、庭の木の名前を全部覚えさせられたことなど、お母さんの熱心な教育姿勢のお話がありました。

お母さんは、お友達の家にも遊びに行くこともすすめられ、そこでの見聞きから世の中のことを学ぶことをお考えだったと伺いました。

当時の明倫小学校は木造で、西村さんが入学されたのは関東大震災翌年の厳しい時代、そのため、先生方も真剣に教育に取り組まれていたということです。中学へ進学する子どもには補習があり、暗くなるまで学校で勉強をしていたと、今では考えられないようなことも伺いました。

子どもの頃の楽しかった思い出は、六角さんの夜店、毎月十六・十七日に東洞院から新町に夜店がたち、その日は門限がなく、おそくなるまで遊べたことを楽しそうに語られました。

映画会も学校で開かれ、学区の大人だけの会もあったそうです。学校が生活の中心で、学区のよりどころとなっており、学区全体が教育熱心なところだったということです。

「ぱなし病」のこともお話の中にあり、これが世の中を乱しているということでした。(・・・ぱなし、やりっぱなし、物を出しっぱなし、靴をぬぎっぱなし、などなど)少々耳の痛いこともありました。

戦争へと向う時代に大学に進学、昭和十六年十二月に繰上げ卒業し入隊されたそうです。身体検査のあった十二月八日に真珠湾攻撃があり、翌年二月から軍隊へ。戦争真っ只中のこと、お友だちの中にも戦死された方がいることもお話されました。「私は申し訳ないけど生きています」とおっしゃったことが耳に残りました。

西村さんのお話は、今回は戦争まででしたが、また機会があればその後のことをお伺いしたいという要望がありました。

狂言をお稽古なさったせいか、よく通るお声で、応援に小学校の同級生がお二人いらして、なごやかな楽しい夜話になりました。


 

                第五回  北観音山    2004.3.17


座長:吉田孝次郎氏

北観音山のお町内、六角町でお育ちになった吉田さんとお祭のかかわりについてお話をいただきました。
昭和17年に最後のお祭があり、その後は戦争のために巡行はされなかったが、お町内では「まつりごと」は行われており、お囃子も続けられていました。

戦後、昭和22年に長刀鉾と月鉾が巡行しました。北観音山は翌年昭和23年に船鉾とともに巡行しました。お父さんがそわそわしていたことが、このときのお祭であったそうです。

囃子方の末座に連なったのもこの年からで、戦後、縄がらみのやぐらの中でジャングルジムさながらに遊んだり、こどもたちにとって、山は楽しい遊び場だったそうです。この頃は男女とも子どもに限っては山で遊ぶことができました。大人にとっても大きな遊びの場であり、衣装の組み合わせなどを楽しんでいました。

他のお町内との装飾の違いを皆が意識していたけれど、お父さんからはよその町内のことを知らなくていいと言われていたそうです。当時は北観音山のことに一生懸命のおとながたくさんいた。お囃子のお稽古を聴いていて、お町内の大人がテンポなどを教えてくれたそうです。

お父さんがお稽古の批評をしてくれたことがうれしかった。囃子方については、昭和6年から囃子の保存会があり、町内在住で、男の子が生まれたら囃子をする義務と権利があったそうです。
今はガードマンに頼んでいるが、当時は寝ずの番があり、このときに大人の世界を垣間見ることができ、縦の社会があり、お祭というひとつの目的に向かって皆が作業をしていた。お供については、吉田氏のお父さんは70歳までもお供ができたことを喜んでおられ、片付けも飾り物については作事方に任すのではなく、家の主たちが片付けていたそうです。

北観音山の飾り布に唐子が楽園に遊んでいる図がある。これは北観音山のテーマでもあるが、子どもたちが無事に育ち、子々孫々の栄えを願っていることが現れています。戦後ペニシリンが日本に入り、病気を治すことが出来るようになったが、それまでは神に祈るしかなかった。子々孫々の栄えが約束されている象徴が唐子の図であります。


                 第六回 「鉾の道を考える」  2004.5.19

 

今回は立命館大学理工学部の八木康夫先生と学生さんたちをお招きして、昨年行いました「鉾の道」景観シミュレーションとそれに対するアンケート結果の報告をしていただき、京都市の方から市内で行われている電線地中化の事例を紹介していただきました。これらを元に、地域の皆さんから活発なご意見をいただきました。

「昔はコンクリートの建物のほうがハイカラでいいと思っていたが、今の若い人の感覚はどうだろう? 学生がいいと思うデザインを見てみたい」

「山鉾と町並み景観のマッチングはどうか? ビルと鉾はマッチしないが、今の時勢ではどうしようもない いい部分が現状維持できればいいが・・・・・将来はどうなるか心配」

「電柱の色を変えるとか、換気扇の色を変えるとか、やれるところからやってみてはどうか」

「公共心のあり方が変わってきた 昔の町式目ではかなりきついことを決めていた 公共心を高めずに行政に頼りきっていてはいけない」

「松坂屋の存在が危ういと心配したが、表の樋をブロンズでやり変えたのを見て、さすがは松坂屋だと思った 京都にふさわしい店を続ける意思表示と見た そういう気持ちがそれぞれの家に行き続けていけば・・・・・」

「最悪のシミュレーションを見て『これではいかん』と思えれば意識が高まるのでは」

「それぞれの時代を代表するような建物がバランスよく建てばいいと思う 明治の町家と昭和の町家は横の線がつながり、うまく連担している」

「50年に一度新しいタイプの町家が生まれている 時々の生活様式に合わせながら再生タイプが生まれているが、それ以降再生タイプは生まれていない 新しい素材でできた建物とトラディショナルな建物のアンバランスさが矛盾として現れている」

「都市でありつづけるには、再生しなければ化石のようになってしまう そうならないようにしながら、新旧のバランスをどう取るかがこの地域や京都の問題だ」

「昔は夏に表に床几を出して、さまざまのコミュニケーションがあった

そのような公共の場がなくなったことが、公共心の低下、町並みへの関心が低下したことのひとつの要因では? 夕涼みを再現してはどうか?」

「祭りも生き物、いろんな体験をしながら悶えながら、続いてきた 祇園祭に対する地域住民の思いに、深くしみじみとしたものがあるから、乱開発を防ぎ、ふさわしくないことをしてはいけないという気分が今も生きている」

さて、立命館大学による「鉾の道」のデザイン研究は現在も続いており、十一月には、まちづくり委員会との共催で再びデザイン展を開催する予定です。  


 

                       第七回 南観音山    2004.8.18

 
座長:木村正之氏

南観音山(百足屋町)の理事、木村正之さんをお迎えして開かれました。

参加者約40名の方々も興味深く祇園祭のことについて耳を傾けておられました。

木村さんは「お祭り」に携わってからすでに40数年を数え、代々百足屋町で「刺繍」のお仕事をしておられます。当日もお父様の刺繍作品などを見せていただきました。

特に祇園祭巡行が先祭り、後祭りと分かれて巡行していた当時のことや、また寺町通りや松原通り等の狭い通りをどのようにして巡行していたかなどです。

特に三条新町の狭い角を曲がるには、当時あったお店の中まで引き手達は突っ込まざるをえなかったそうで、その大変な様子が手に取るようですね。

また辻回しの際、竹を車輪の下に引き込むのは最近で、昔は柳の枝を使っていたことなど興味深い話を伺いました。

現在は、南、北両観音山にそびえる、松の木がなかなか入手困難で、組み立て時に行司がじゃんけんで松の木を選定するということです。ほんと、私たちには見たことがない、お町内ならでは面白いお話でした。もっとも昔はもっとゆっくりと、巡行するほうも、見物するほうも、一日かけて祇園祭の巡行を楽しんでいたそうです。

木村さんのお話は、南観音山の一年間にわたる行事についても伺いました。

特に現在でも7月31日には愛宕山に奉納のため登られ、愛宕神社神前にて、お囃子のご奉納をなさっているとのことです。

また小さいころから参加されている、「お囃子」について、お囃子方への参加にはどうすればよいのか。またお囃子の曲目について、曲数、通り毎に曲が変わることなどについても詳細に教えていただきました。あの狭い「お山」に50名もの人が乗っておられるとはと驚くことがとても多く、興味が尽きないものでした。

百足屋町は、最近も独自に「町内式目」を定められ、ご町内の活動がとても盛んな町内です。


 

                       第八回マンション住民  2004.9.15

     アンケート調査結果報告 

座長:河野泰氏

 今回は明倫まちづくり委員会のメンバーでもあり、地域解析センターの所長の河野 さんに6月に行った明倫地区のマンションにお住まいの方々に対するアンケート の結果発表とその分析についてお話していただきました。

 ■調査の概要

― 二種類の調査を実施 ―

今回の調査は、よりよい明倫を目指し、まちづくりの目標やルールを定める「明倫まちづくりの指針」を作る取組の一環として実施したものです。

内容としては、棟数、世帯数など、「マンションの現状」を把握するものと、「マンションに居住されている皆さんへのアンケート」の二種類の調査を実施しました。

 

■ファミリー分譲が半数

― 学区内マンションの現状 ―

分譲・賃貸、ファミリー・ワンルームを問わず、明倫学区内にあるすべての共同住宅を対象にしました。

その結果、平成16年4月現在、明倫学区内には46棟の共同住宅があり(建築中二棟を除く、全敷地が明倫学区内のもの)、戸数の合計は、1428戸で、タイプ別の戸数は図1のとおりです。

  管理人常駐は四割、町費の全戸負担は半数

これら46のマンションのうち、管理人が常駐しているのは40%強で、また、町費を全戸が負担しているマンションは半分程度に止まっています。

そのため、町内からの配布物も、ほぼ半数のマンションにしか行き渡っておらず、地域とのコミュニケーションの面で問題が残されています。

 

 ■利便性を高く評価、交通安全や子育て環境に問題

― 居住者アンケート ―

 ●高かった回答率                            

アンケートの配布、回収状況は次のとおりでした。

◇対象世帯数: 1428世帯

◇配布数: 1371世帯

◇回収数: 370世帯

◇回答率: 約27%

27%というのは、賃貸ワンルームも含めた回答率としては非常に高く(60%を超える回答率のマンションもあります)、居住者の皆さんのまちづくりへの関心の高さが現れています。 

●年齢層は三十代、四十代、居住年数は六年以内が八割以上

30歳代と40歳代を合わせると、回答を頂いた方の半数に近く、全体の 63%が女性でした。

また、居住年数は、三年以内が59%を占め、4~6年を合わせると86%になります。

これらの方々は明倫学区の様子がまだよく解らないという方が多く、地域への関心が非常に高くなっています。

 ●多い単身者

居住者の世帯タイプは単身者が43%で、ファミリータイプのマンションでも単身者が多く、お子さんのある世帯は30%と比較的少数です。       

これは、永住意思のある方の割合、32%とほぼ同じです。 

 

●「交通機関の便利さ」が魅力、

< 居住理由 >

居住理由については、「交通機関が便利」が圧倒的に多く、次いで「京都の都心部である」、「生活に必要な店や施設が多い」、「職場(学校)が近い」など、京都のまちなかにある明倫学区の便利さが、大きな魅力になっていることが窺えます。                                     

環境」、「まちなみ」、「地域情報」、「交流」、「緑」など、いずれもまちづくりに関して重要な事柄に関するご意見が多くあります。

また、具体的なアイデアについても、右のように多くの貴重なご意見が寄せられており、今後の「まちづくり委員会」の活動や、「まちづくりの指針」づくりにあたり、地域の皆さまと共に考えて行きたいと思います。

 

 


             第九回 八幡山  2004.9.15

座長:畑 忠男 さん 

八幡山の一年をうかがいました。八幡山はお名前の通り、ご神体は神宮皇后からお生まれになった応神天皇(八幡さん)です。

お町内にお社があり、古くは1800年ごろに建てられたお社があったということです。

八幡山は 1213日の「ことはじめ」に新旧行司さんの交代、申し送りがあります。行司さんは70歳までの所帯主が勤め、現在はお町内30軒中20軒がそのお役にあたられています。それぞれ3つの組に分け、5~6人の行司係があります。3年に1回お役がまわり、その組が1年間の様々な御用をされます。

「ことはじめ」の引継ぎが済むと、お社のお正月のしたくであるお注連縄飾り(注連縄はお祭りの時にわらじを作ってもらうところで頼んでいる)、新年の挨拶と続きます。

2月~3月にかけては、お祭りの時にお分けする夜泣き封じの「はとぶえ」「御朱印」、「土鈴」、「絵馬」の準備が始まります。

6月からは本格的にお祭りに向けての準備が始まり、行司さんも忙しくなります。紋付、はかま、裃と行事によって衣装も申し合わせがあります。

7月にはいり、くじとり、10日の吉符入りでいよいよお祭り本番です。お山番は抽選でお町内全員が当番をされます。昔は不寝番もあったのですが、2004年から夜はガードマンに頼まれるとのこと。戦後、物品の販売は子どもたちの役目でしたが、最近は子どもが少なく、高倉小学校の子どもたちに協力してもらっているとのこと。

かつては、17日巡行当日、提灯に火を入れ、午前3時に鐘をならして担ぎ手さんを迎えていたのですが、昭和の終わりには中止されたそうです。巡行、足洗い、疫神社での夏越の払いが済むと、次は放生会があります。これが八幡宮のお祭りで、お町内では地蔵盆をかねておられるそうです。放生会がすむと行司さんのお勤めも一段落です。  


 

          第十回「明倫きのう・きょう・あした」      2004.11.14

 文化の継承と活力ある明倫づくり

祇園祭にふさわしい町並みと暮らしの継承

パネラー

 カルロ・アルドゥーニ氏(イタリア文化会館京都館長)  

 松村 篤之介氏(京町家友の会長)

 深見 茂 氏 (祇園祭山鉾連合会 理事長)

 中尾金次郎(明倫学区祭事委員会)

 吉田孝次郎氏(自治連合会会長)

コ  コ 

 

         コーディネーター 八木 康夫 氏(立命館大学理工学部助教授)

司  司会 小島 冨佐江 (明倫学区まちづくり委員会)

 

毎月一回開催している明倫夜話の座を「まちなかを歩く日」にあわせて開催をしました。

今回はまちづくりについて、様々な場でご活躍の方々をお招きし、大きく2つのテーマに分けてお話を頂きました。

前半は祇園祭を継承していくためにふさわしい町、そこに息づく暮らしとはということをテーマにしました。

議論を始める前に立命館大学の八木先生を中心に4回生の学生さんたちによる新町通りの「最悪のシュミレーション」が示されました。

 

京都は京都人がつぶしてしまったのではないか』という、手厳しい発言がまずありましたが、それは戦後の混乱、意識の変化など様々な要因が積み重なっているとのことではないかとの発言もありました。

それを見直しながら、今自分たちがどのような地域で暮らしているのか、かつてどのような地域であったのかを学習することを始めないといけないのではないか。

戦後は豊かになったがそれが究極の幸せではないことがわかってきたのではないだろうか。

寒い時、暑い時があるということを感じながらいかに凌いでいくか、生活の知恵が必要になる等といった暮らし方の再考の提案もありました。

一方祇園祭については、お祭のあり方、住み方など通りによって棲み分けが出来るようになるのではないか。同じ祭であっても通りによって違いがあるということが可能ではないか。お町内によって事情は違うが祇園祭を根本にしてお町内が集まり仲良くしていくことでより良い町が出来ていく。山や鉾を出している町内だけのお祭ではないということを皆が再確認する必要がある。氏子町に属する人の連帯を新たにすることも大切なことであるなど数多くのご意見があり、学区全体としてのこれからの課題ともなります。

地域資源の活用と活性化

   パネラー

川崎 栄一郎氏(紫織庵)   

 黒竹 節人氏 (くろちく)

 酒井 英一 氏 (おたべ)

 渡辺 敏幸氏(新風館館長)

                コーディネーター

                  リム・ボン氏(立命館大学)

後半は地域の活性化について、商業でご活躍の方々をパネラーにお迎えしました。

最初に、立命館大学3回生による「まちなか再生プラン」が紹介されました。

それぞれにこの地域の資源を重要とお考えで、それを生かしたお商売を展開されています。明倫学区は職住にまだ歴史という大きな資源がある。「場所のちから」があるところである。

町内それぞれに個性があって、、新しくマンションなどに入ってこられる方々への地域のオリエンテーションは必要になるのではないか。まず地域に愛着、誇りを持ってもらうことが大切なことである。地域の持続した発信力が大切、それを伝えていく人を増やすことも必要。そのような人が集まって町衆となって、ビジネスが起こってくればいいと思う。京都は排他的で、明倫はその典型のように言われる。それなら、個々の人が自分なりに努力してそれが結果的に様々なところで結ばれていくのがいいのではないか。

明倫学区は地域丸ごとミュージアムである。

日本のほんものの町衆文化の粋がここにあるとなったらすごい事になると思うという、

リム先生の締めくくりのご提案を頂き、夜話の座特別編シンポジウムを終了しました。


      

    第十一回 菊水鉾  2005.2.17

 座長:猪田 浩市 さん 

菊水鉾町の古くは「夷三郎町」であり、祇園御霊会では恵比寿神をご神体とする「夷山」が巡行していました。貞享元年(1684)にお町内にあった夷社の消失で祠堂、ご神像を失い、菊水鉾町に改称されました。元治元年の大火事では菊水鉾が消失し、その後昭和27年の仮巡行までには長い年月を要したが、翌28年には立派な鉾が再興された。元治元年の火事のあと、懸想品を山伏山に寄贈、その後毎年山伏山からは行者餅がとどく。再建については賛否両論があったが、形が出来上がってくるにつれお町内はまとまったそうです。

いまも「相変わりませず」という挨拶でお祭りの準備が始まり、町内会と保存会は一体となってお世話をされています。近年お町内にマンションが建ち、入居者の方々には物件説明の折に町内会の規約についても説明をしてもらい、町内会で窓口を設け、保存会にも加入してもらうようにしておられます。現在は15軒が加入されています。

昭和28年の巡行の折、囃子は月鉾から来てもらったので、同じ囃子があるけれど、わたり2曲、もどり3曲は復活しています。囃子方は80名ほどおられ、当日は45名~50名が巡行に出ます。小学校三年生ころからお稽古を始め、鐘方、太鼓方、笛方にわかれ、月一回の練習を続け、お祭りが近づく六月からは週一回の稽古があります。それぞれに昇進試験があり、出席日数とあわせて当日に鉾に乗る人を決められるようです。鉾の曳き手さんはボランティアを優先されていて、50名ほどが参加されています。理事は十数名、作事方は25名、囃子方、曳き手を合わせるとかなり大勢の人数が当日の巡行を支えていらっしゃることが分かります。古くて新しい菊水鉾。皆さんのお力でますます磨きがかかることでしょう


  第十二回 浄妙山     2005.6.15

浄妙山保存会 高谷皎二さん

 

祇園祭を翌月に控えた6月はおじいさまの代からお町内にお住まいの高谷さんからお話をうかがいました。

浄妙山を出すお町内は骨屋町、扇の骨を作っていたところから名前がついたようですが、どんど焼け(元治元年)前の町内30軒には骨を作っていたところは一軒も無かったとのこと。

浄妙山は常明山とも記されており、江戸から大正のいろんな道具類にはこの常明山の文字がつけられています。

お山の起源など知りたいこ前のものは無く残念なことといわれてとがあるのですが、寛政9年の記録以います。

浄妙山の特徴は全面がステージであり、四方から見ることが出来ますが、そのかわり見送りをつけるところがありません。また、他の山に比べてかなり重たいのも特徴。ご神体が2体乗るためトップヘビーでバランスをとるのが難しいため、山廻しは苦手。

ご神体は宇治川の「橋合戦」、三井寺の僧兵「筒井浄妙坊」と「一来法師」。一来法師が浄妙坊の頭に手をついて飛び越え先陣へでる瞬間をとらえています。そのとき「悪しう候、浄妙坊」と一来法師が声を掛けたために、「悪しう候山」とも呼ばれていたそうです。

現在保存会は30名(町内在住は18人)ですが、平均年齢が徐々に高くなりつつあります。一方で、マンションができ、55所帯がいらっしゃるが、ここを中心に友の会を組織、次の世代への継承も視野にいれておられます。

寄町にも5、6年前からご挨拶に行き、友の会にも入ってもらうようにされています。ゆかりの地には理事、役員が毎年お参りされ、先方からもお祭に来られるなど交流があります。

お祭を支える人たちについては、「ヒト、モノ、カネ」だけでは難しく、いかにモチベーションを自分たちで見つけ出すか、高めていくか。

「たかが祭、されど祭」楽しんでやることはやるといった考え方が大切と話されていました。

骨屋町の方々が、浄妙山を大切にされ、継承の輪を広げることに日々努力されている。新しい変化にもしなやかな感性で対応されている、ということを感じました。  


 

               第十三回 昭和初期の映像記録     2005.8.17

NPO法人「京都の文化を映像で記録する会」 濱口十四郎さん

フィルムが映ると、会場のあちこちからささやきが聞こえてきました。なつかしいというのか、へえーというのか、昭和初期に撮影された京都の様子でした。

濱口さんたちは、かつて京都で撮られた8ミリフィルムなどを、デジタル化して保存することを奨める活動をされています。

今回見せていただいたものは、昭和初期のお嫁入り、ピクニックなど風俗や人々の様子がわかるものと、消失前の金閣寺が映った景色など。

鴨川の床から見える景色や南座、当時の京阪電車、比叡山など、今とは違う風景にびっくりしたり、あらためて思い出したりと、世代によって受け止め方は様々。


十四回

                        明倫学区で計画されていた強制疎開    2005.9.21

近藤 泰輔さん (山伏山町)

今回は第二次世界大戦の末期、明倫学区で計画されていた強制疎開のお話をおうかがいしました。

近藤さんは日彰校のご出身、昭和11年に明倫学区に引っ越してこられました。昭和12年に小学校4年生だった近藤さんの記憶に、8月12日に宇治火薬所(現在の小幡)の爆発が日彰校の2階から見えたこと、翌年に日彰校が火災で全焼したことがあります。木造の校舎は奈良の女子師範が引き取ることに決まっていましたが、全焼してしまったということで、その話はなくなったそうです。

年々、戦争に向けて世の中が動いていったようですが、京都はそれほど深刻な様子は見えなかったと記憶されていました。それが大きく変わったのが、20年3月1314日にかけての大阪大空襲でした。同年、1月16日に今熊野に爆撃があったのですが、一般には知らされなかったのか、あまり大きなこととはならなかったということです。3月9日~10日に東京大空襲があり、その被害は10万人にも及んだのですが、京都ではまだ距離があったようです。しかし、大阪の燃える様子が京都からも見えたようで、京都も危ないという危機感が急につのったのでしょう。烏丸通を荷車を押して、疎開に向かう人々の姿が多く見られ、近藤さんも北へ疎開をされました。そのときの疎開場所としては、今の松ヶ崎や上賀茂、北大路界隈などでした。

20年6月には明倫小学校のまわりは強制疎開の方針が決められていて、8月に実行されることになっていたそうです。山伏山町、手洗水町、橋弁慶山町、占出山町の4ヶ所の強制疎開によって、建物は郡部の農協に引き渡すことが町会長に知らされていました。この界隈の建物は立派だったということで、粉々に潰してしまうことはあまりにもったいないのでこのようなことが決まっていたようです。この頃に観音堂町、霰天神山町の一部は壊されました。

7月25日から8月にかけて、明倫小学校の周りは取り壊されることになっており、近藤さんのお父上は最後まで見届けることにされていて、8月10日までお宅に残られていました。その後、8月15日の終戦で、取り壊しは中止になり、今度は接収されることへの心配が出てきました。疎開先から急遽戻って、界隈の見回りをされていたそうです。山伏山町はその頃19軒ぐらいのお宅があったということですが、現在は13軒になっています。

学童疎開もあり、20年3月に小学校の三、四、五、六年生99名と先生6名は綾部へ疎開していました。(近藤さんの妹さんは天王寺に行かれていました。)この子どもたちは終戦後、1016日に帰京したということです。

御池通り、堀川通り、五条通りなど、現在広くなっている通りは強制疎開によって広げられた道で、そのことは良く知られていますが、街中にもこのような計画があったということはあまり知られていません。戦争時代の記憶は時の流れとともにどんどんと薄れていきますが、当時のお話をうかがうことで、少しでもそれらを記録の中にとどめ、先輩たちがご苦労され、大切に守られてきたこの学区をよりよい町にしていきたいと思います。


             第十五回 『一月 お正月』 2006.1.19

新年最初の夜話は、「年の始め」の参加者全員による斉唱で始まりました。

明倫学区の女性にお集まりいただき、お正月の思い出などをお話いただきました。

            

お正月の準備や「ことはじめ」について、年をこえて、元旦の家族でのご挨拶、お年始周り、お雑煮のことなど、盛りだくさんの話題で楽しい時間を過ごしました。  女性の黒は、黒色を女性とした陰陽道の思想からきているとか、何度も塗り重ねていくうちに黒くなったなど、様々な説がありますが、結局のところはまだはっきりとしたことはわかっていないということでした。   


 

               第十六回  『鯉山のタペストリーについて』  2006.4.17

島田 崇氏(鯉山誌編纂)

山本 彰彦氏(鯉山保存会理事長)

鯉山の財団法人45周年記念誌出版にあたり、昭和55年当時の理事長、野口安左衛門氏と共に鯉山誌を編集された島田崇氏がその任を引き受けられたことから、その中でのエピソードをお話頂くことになりました。鯉山のタペストリーについては元理事長の野口氏が心血を注いで調査をされたことがあり、そのときにご一緒にまとめられたのが島田氏です。

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島田氏によると、祇園祭の魅力は異国情緒に満ちていることで、染織品約九百点の三分の一は渡来品、中国、朝鮮がそのほとんどを占めているそうです。他にはインド、エジプト、ペルシャがあり、ヨーロッパのものは珍しかったようです。鯉山のタペストリーはヨーロッパから来た羊毛です。羊毛をかけたのは、凾谷鉾が最も早かった(1712年・享保三年)ようで、柄については、旧約聖書からの題材(禁制の宗教図)だったのですが、当時はわからなかったため、そのままになっていました。

その後、鯉山(1796年・寛政六年)が、文化・文政になって鶏鉾(1800年)や白楽天山、霰天神山がタペストリーをかけました。

大津祭、長浜祭にも同様のタペストリーがあり、どのように日本に入ってきたのか、どのくらいの値段だったのか、どんな風に広がっていったのか、謎解きのようにお話を頂きました。

山本理事長からは、現在のお祭りについてうかがいました。かつては後祭で静かなお祭りだったのが、変わってきたとおっしゃいます。お町内も5~6軒だったところにマンションが建ち、多くの方が住まわれるようになりました(135軒)。

新しい方々の参加も考えて、お祭りの執行方法も新しくされました。鯉山保存会とは別にマンションの方々を中心にした鯉山友の会が発足し、お祭りに興味をもっていらっしゃる方々の協力を得ているということです。

お手伝いや不寝番、ごみ掃除への参加、お祭り以外にも鯉山を通じてお茶、お花のサークルが出来、活動をされています。

新旧一緒になって和やかに、楽しくお祭りの執行をされている鯉山保存会と友の会、お祭りを通じた輪はますます広がっていくことでしょう。


 

                第十七回 「京ことばの会」  2006.5.17

座長:「京ことばの会」代表

  中島さよ子さん

今回は明倫学区という範囲を超えて、現在では使われなくなってきている「京ことば」を一人でも多くの人に、その良さを知って頂き、また、伝えて行きたいという目的で活動されている、「京ことばの会」代表の中島さよ子さんに「京ことば」についての成り立ちや現状と「京ことば」を使っての南観音山にまつわる善財童子の朗読などを聞かせて頂きました。

「京ことば」は京が都であった時代、御所内で使われていた「御所ことば」が起源となっています。当時の都で使われる言葉が、今で言う標準語にあたります。本来、地方の言葉を何々弁というけれど京の言葉は地方ではないので弁とは言わず、「京ことば」というのが正しい言い方ですと話されました。京都に住む私たちにとっては何とも嬉しく、誇らしい話でした。また、『京ことば』の特徴として、敬語的な表現が多い―何にでも「お」を付ける、お豆さん、お腹、お居処(オイド)、御御御付(オミオツケ)等などや、母音を伸ばす―「絵ー上手やけど、字ーへたやナー」 などがあり、『京ことば』『京都人』と聞き、持たれるイメージは、柔らかい物腰の中、人をけなす、あいまいな言葉使い等、マイナスイメージが多い様ですが、それは栄枯盛衰の時代を生き抜く知恵でもあったようです。勿論、褒め言葉として、「ハンナリ」(上品な華やかさ)、「キサンジ」(快活)等もあります。

本能寺のことについても、今の本能寺が本来の場所では無いことはよく知られていますが、本能の「能」の字が変えてあることについて、本能寺に火事が多い為、火難よけにヒ()が去るように去に変えてあることなどのお話は中々興味深いものでした。善財童子の朗読では講師の中島さんと3人の塾生の方が中国の昔話である善財童子の修行時代の様子を京ことばで朗読していただきましたが、途中までで、続きが聞きたくなる面白さでした。最後に当日配られた「京ことば」の資料について皆がどれくらい知っているかを話し合いましたが、やはり、お年を召した方々にはなじみがある言葉が多かったようであちこちで話が盛り上がり、また聞きかせて欲しい楽しい会になりました。当日の資料を載せてみましたので挑戦してみてください。

①あも ②えずくろしい ③えんばんと ④かにここ ⑤ぐつ ⑥こーとな

⑦すみくだ ⑧じゅんさいな ⑨しょーびんな ⑩せつろしい ⑪たんと

⑫つろく ⑬はしこい ⑭へつる ⑮のつこつ ⑯へんねし ⑰ほっこり

⑱むさんこに ⑲やくたいな ⑳よーすする

 

①餅 ②過度に見苦しい ③あいにく ④ぎりぎり ⑤都合 ⑥地味で上品

⑦隅っこ ⑧いい加減な ⑨貧弱な ⑩気ぜわしい ⑪たくさん 

⑫調和がとれる ⑬すばやい ⑭上米をはねる ⑮持て余す様 ⑯すねる

⑰疲れたけど安堵する ⑱むやみに ⑲無茶な ⑳気取る


                                         

                第十八回    『しっといやすか』  2007.2.21

                   京ことば

                                                                                                京ことばの会

中島さん、川口さん

「京ことば」につて、明治維新までは標準語だったこと、京都弁という言い方を嫌うことからも、やはり京都のことばについてプライドがあったように感じます。地方のことば(方言という言い方もしますが)は、昭和39年の東京オリンピック以降、急速にテレビが普及した結果消えてしまい、意識しないと出てこない言葉になってしまいました。 

          朗読 「善財童子さま」 京ことばでかかれたお話 

京ことばは、同じ京都の中でも地域性があり、大きく分けると、町方のことば、御所ことば、伝統産業にかかわられている職人さんのことばなどがあります。御所のことばは、女官が使っていたことばがほとんどで、「もじ」ことばは今でも使われているものがあります。「おすもじ」(おすし)、「かもじ」「しゃもじ」などがあげられます。また、「お」をつけるものが多く「おから」「おひや」「おなか」「おじや」などがあります。語源についても、「行きたいのはやまやま」の「やまやま」は山岳宗教からきていると言われており、今でも寺院のことを「おやま」「本山」などと呼んでいます。

「玉の輿」については、江戸時代、綱吉の生母がお玉という名前だったことからきています。京ことばの特徴としては、婉曲表現が多く、例としては「せいてせかしまへんけど」という言い方があります。これは急いでいることをやんわりと伝えています。また、ほめことばは少なく、「きさんじ」「はんなり」「よううつらはるなあ」(よう似合わはるなあ)のほかには、あまり見当たらないようです。

逆にちょっとひねった言い方をして、けなしていることを婉曲に表現するのは上手です。「おくちべっぴん」(口が上手)などはその例でしょう。

自分で呼びかけながら、返事もいっしょにする「あんなあ、へえー」は女性の言い方として少し前まではよく使われていました。「おはよう、おかえりやす」(いってらっしゃい)も出かけるときには必ずといっていいほど、家のものから聞こえてきた言葉です。そのほかのことばの紹介。しっといやすか?

「ちんちくりん」「ひざぼん」「でぼちん」「はんちゃらけ」「なむなむ」

「たんと」と「ようけ」の差については「たんと」は心理的な量、「ようけ」は物理的な量ではということでした。

           朗読 「かどそうじ」大村しげさん作

             「菜の花のべべ」ひらのりょうこさん作 

京ことばはいろんなところで単語として使われています。いままで使われていた意味と違った使い方が気になるというご意見も聞かれました。

私も音や雰囲気で感覚的に、おもしろおかしく使われていることも多くなっているという気がしています。美しい、正確なことばを京都に住むものとして伝えていきたいと感じた夜話の座でした。

記 小島富佐江

 
 
 
 
 
 
 

 

つづく